国民国家と列強の世界進出・第一次世界大戦|30分で学べる世界史まとめ

19世紀ヨーロッパにおける国民国家の成立、19~20世紀における列強の世界進出とアジアの民族運動、第一次世界大戦、ロシア革命にいたるまでの流れをみていきます。内容が豊富なのでまずはストーリーを把握することに努めましょう。

国民国家と列強の世界進出・第一次世界大戦_30分で学べる世界史まとめ

国民国家の成立

(1)国民主権の進展と国民国家

19世紀の自由主義・国民主義運動を背景に西欧の国々では自由主義的改革が行われるとともに国民主権が進展し国民が国政を担う国民国家が形成されました。

イギリスでは非国教徒の公職就任が認められ、また選挙法の改正で資本家だけでなく労働者にも選挙権が与えられたほか、工場法の制定、公立学校の設立、労働組合の承認、秘密投票制などが実施されました。
フランスではナポレオン3世による第2帝政のあと第3共和政が成立し(1870年)、議会制民主主義が確立しました。
またオランダやベルギー、スイス、北欧諸国でも立憲王政(制限王政)や責任内閣制、男子普通選挙制などが定められました。

(2)国家統一と国民国家

分裂状態にあったイタリアとドイツは国家統一によって国民国家を建設しました。

イタリアはサルディニア王国の首相カブールを中心に統一が進められ1861年に統一されました。
ドイツはプロイセン王国の宰相ビスマルクを中心に統一が進み、オーストリアやフランスとの戦争に勝利して1871年に統一されました。

両国はナポレオンに踏みにじられた経験から国民の自由よりも民族統一を優先させ他国に支配されない強い国の建設を目指したため、国民主権よりも民族の単一性が強調される国民国家となりました。
国旗

欧米列強による世界分割

(1)19世紀後半の欧米列強

国民国家では国民と民族がほぼ同義となりしばしば民族的優劣が意識されようにました。国力に自信のある国民国家は近隣国への対抗意識から国威発揚、民族としての自尊心のため植民地の獲得を競い合いました。

また産業革命が普及すると列強は資源と市場を求めて海外進出を強めました。

さらに19世紀後半には資本主義が高度に発達し巨額の資本を融通できる金融資本の影響力が強まると、資本の有利な投下先をもとめる海外進出も始まり植民地獲得競争がより一層激しくなりました。この時代をとくに帝国主義の時代といい、世界は数か国の列強によって分割されていきます。

(2)中近東分割

オスマン朝のトルコはフランスのアルジェリア占領(1830年)、エジプトの自立、バルカン諸民族の独立などで多くの領土を失ったうえ列強に不平等な通商条約を結ばされました。
そこで1839年以降西欧を手本に近代的な中央集権国家を目指して宗教差別の廃止、銀行や官営工場の設立などの改革に着手し(タンジマート、恩恵改革)、また国会の開設や責任内閣制などを定めたミドハト憲法を制定しました(1876年)。
しかし外債への依存が強いためかえって列強の干渉を招きました。またミドハト憲法は保守派の反発によりロシアとの戦争を理由に停止されました。
トルコは「瀕死の病人」といわれるほど衰退します。

カジャ―ル朝イランはロシアとの戦争に敗れアルメニアなどの南カフカスをロシアに割譲し、また治外法権などを認めました。さらにロシアは中央アジアのボハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を征服しイランへの進出を強めました。
またイギリスもインド防衛のためイランのベルチスタン地方を併合しイランに進出しました。
イランはトルコのタンジマートを模して改革に乗り出しますが財政破綻し利権を列強に売り渡すことになりました。

(3)インド、東南アジア分割

プラッシーの戦いでフランスを駆逐したイギリスはインドをほぼ独占し、またベンガル州の徴税権を獲得し領土的支配を開始しました。

イギリスはインド内部の分裂を利用して領土を広げ、1849年にシーク教国を滅ぼしほぼ全インドを支配下に置きました。
産業革命後東インド会社の商業活動が停止され(1833年)、多くの資本家がインドに進出したため、イギリス産の廉価で良質な綿製品が大量に流入しインド伝統の手工業は大打撃を受け街に失業者があふれました。
そのため会社のインド人傭兵シパーヒーの反乱(1857~59年)をきっかけに大規模な反乱が起きました。イギリスはムガール帝国を滅ぼし、また東インド会社を廃止し直接統治しました(1858年)。こうしてイギリス国王を皇帝とするインド帝国が成立しました(1877年)。
またインド防衛のためビルマ(ミャンマー)を併合しました(1886年)。
さらにインドと中国をつなぐ要衝のマラッカ海峡に進出して英領マライ連邦を形成しました(1895年)。
マ-ライオン
オランダは現在のインドネシアに蘭領東インドを成立させ(1904年)、フランスは清を破ったのち(清仏戦争)、仏領インドシナ連邦を成立させました(1887年)。
フィリピンはスペイン領でしたが米西戦争(1898年)によりアメリカの植民地となりました。

(4)中国分割

○中国の半植民地化
イギリスは対清貿易赤字解消のためインド産のアヘンを清に密輸しました。清が取締りを強化するとイギリスは清を攻撃し(アヘン戦争、1840~42年)、香港の割譲や賠償金の支払い、関税自主権の放棄、治外法権などを清に認めさせました。またアメリカ、フランスとも不平等条約を結び、中国の半植民地化が始まりました。
しかし貿易赤字が解消しなかったためイギリスとフランスは再び清を攻撃し開港場の拡大、外国人の内地旅行の自由などを認めさせました(アロー戦争、1856~60年)。
さらにロシアがアロー戦争の隙にアムール川以北の割譲を迫り、またアロー戦争の仲介の報酬としてウスリー川以東を割譲させました。

この間、洪秀全の教団が太平天国を樹立し反乱をおこしました(1850~64年)。清の正規軍では収められず地方の有力者が自営軍(郷軍)を組織しました。李鴻章の淮軍、曾国藩の湘軍やイギリス人ゴードンの常勝軍の活躍でようやく反乱は鎮圧されました。

乱後、郷軍は軍閥化し李鴻章や曾国藩らの発言力が増しました。
彼らの主導で西洋の先進技術の吸収が進められました(洋務運動)が政治体制は全く改革されていないため国力回復につながりませんでした。

○日清戦争と中国分割
日本は清と異なり先進技術の吸収だけでなく法制度にいたるまで西欧化しました。

日本は、朝鮮が列強の植民地になることおそれ朝鮮を近代化するため日本の影響下におこうとしました。しかし清は唯一残った属国の朝鮮を死守するため朝鮮の守旧派と組み日本を排除しようとしたことから、両国は対立し日清戦争が勃発しました(1894~95年)。日本が勝利し清に朝鮮の宗主権放棄と台湾・遼東半島の割譲、多額の賠償金の支払いを認めさせました。

日本はその賠償金で産業革命を推し進め列強への仲間入りを目指します。

一方、清は弱体ぶりが露呈し列強の餌食になります。ロシアは日本に遼東半島の返還をさせた見返りに東清鉄道の敷設権を獲得し、イギリス、フランス、ドイツも利権を獲得しました。

ようやく清でも康有為らにより日本に倣った立憲君主政の導入が検討されますが(変法自強運動)、西太后ら守旧派につぶされました(戊戌の政変)。

義和団という教団による排外運動に乗じて清が列強に宣戦すると(義和団事件)、列強は共同で出兵して北京を占領し清に多額の賠償金と北京駐兵権を認めさせ中国の半植民地化を推し進めました(1900~01年)。

(5)アフリカ分割

アフリカ
フランスのレセップスによりスエズ運河が開かれるとアフリカへの関心が強まり、まずイギリスがエジプトの財政難に乗じて運河会社の株半分を買収し、またエジプトでおきた反乱を単独で鎮圧しエジプトを占領しました。
またウィーン会議でオランダから取得したケープ植民地とエジプトを結ぶ縦断政策を進めるためスーダンを占領し(1898年)、ボーア戦争でオランダ系ボーア人の国々を滅ぼして南アフリカ連邦を設立しました(1910年)。

フランスは1830年に占領したアルジェリアを拠点にチュニジアや西アフリカ一帯を植民地にしました。

アフリカ分割はベルギーのコンゴ自由国の設立(1885年)から激化し、ドイツ、イタリアのほかポルトガル、スペインがアフリカ分割に参加しました。

その結果、エチオピアとアメリカの解放奴隷が建国したリベリアを除く地域が列強により分割されました。

(6)太平洋、カリブ海分割

イギリスは18世紀後半のクックの探検以来オーストラリアを領有し1901年に自治領とし
またニュージーランドも自治領としました(1907年)。さらに周辺のメラネシアやポリネシア南西部を植民地にしました。

フランスはタヒチなどのポリネシア南東部を植民地にし、ドイツはミクロネシアをスペインから買収しました。

アメリカは米西戦争でスペインからグアムを奪い、さらにハワイ王国を併合しました(1898年)。また米西戦争でカリブ海のプエルトルコをスペインから奪い、キューバを事実上保護国にしました。またパナマをコロンビアから独立させて一帯を永久租借しパナマ運河を完成させました(1914年)。

日露戦争とアジアの民族運動

(1)日露戦争

ロシアは義和団事件後も8か国連合軍の協定に反して満州の占領を続け朝鮮にも進出する勢いでした。危機感を抱いた日本はイギリスと日英同盟を結び(1902年)、アメリカの支持をとりつけました。
1904年日露戦争が始まると列国の予想に反し日本が有利に戦いを進めました。しかし翌年には戦力が尽き、またロシアで革命騒動(第一次ロシア革命)がおきたため両国はアメリカの仲介により講和し、日本はロシアから南満州の権益と南樺太を譲り受けました。

これにより日本は列強の仲間入りをして、1910年に朝鮮を併合し翌年には列強との不平等条約の改正に成功しました。

ロシアでは革命騒動により言論の自由が承認され議会が開設されましたが、議会にはほとんど権限がなかったため革命の火がくすぶり続けました。

(2) アジアの民族運動

日露戦争での日本の勝利と第一次ロシア革命は列強の植民地となったアジアの諸民族に希望を与え、各地で民族運動がおこりました。

イランでは革命がおこり憲法の制定と議会の開設を国王に承認させましたが(1905年)、列強の圧力により頓挫しました。
トルコでも青年将校や知識人からなる青年トルコ党が革命をおこし(1908年)、ミドハト憲法の復活と議会開設を実現させました。しかし列強の圧力と汎トルコ主義に不満を持つアラブ人の反発などで成果は上がりませんでした。

インドでは親英勢力育成のために設立されたインド国民会議が日露戦争を機に逆に反英勢力の中心となり国産愛用(スワデーシ)、自治(スワラージ)などを呼び掛けました。これに対しイギリスはイスラム教徒に全インド=イスラム連盟を結成させ民族運動の分裂を図りました。
ベトナムでは日本への留学運動(東遊運動)が行われました。しかし日本はフランスの要求をのみ留学生を退去させてしまいました。

中国の孫文ら清朝打倒を志す革命派は日本の東京に結集し中国革命同盟会を発足させました(1905年)。
清朝が外債を受けようとして鉄道国有化令を発すると、外国への利権売渡しに反対する革命派が蜂起し、これに武昌の軍隊も呼応したため革命は全国に広がりました(辛亥革命、1911年)。
翌年革命派は孫文を迎え南京で中華民国の成立を宣言しました。孫文が臨時大総統に就任し、中国革命同盟会は国民党と改称しました。

これに対し軍閥の袁世凱は革命派との交渉により皇帝を退位させ清朝を廃しました。

それと引き換えに袁は大総統に就任しましたが、中国は地方軍閥の割拠・内戦というお決まりのパターンに入りました。

第一次世界大戦

(1)列強の合従連衡

植民地獲得競争に明け暮れる列強は熾烈な外交合戦を展開しました。

ドイツ(独)の宰相ビスマルクはフランス(仏)の復讐を警戒しオーストリア(墺)、イタリア(伊)と三国同盟を結成し(1882年)。ロシア(露)とも再保障条約を結び、またイギリス(英)との友好関係を保つため積極的な海外進出を控えました。

しかしウィルヘルム2世が皇帝に即位しビスマルクが引退すると、独は積極策に転じ露との条約更新を拒否しました。
そのため露は仏に接近し露仏同盟を締結しました(1891年)。
英は充実した国力を背景にどの国とも同盟を結ばず「栄光ある孤立」を保っていました。

しかし英もしだいに独の海軍増強を警戒するようになり、それまでアフリカで対立していた仏と利害調整を図り英仏協商を結びました(1904年)。
また日露戦争後、露はアジア進出を断念し汎スラブ主義を掲げてバルカン進出を強化すると英と露は接近し英露協商を結び(1907年)、独に備えました。
こうして三国同盟に対し三国協商が成立しました。
また仏は密かに伊に接近し三国同盟の切り崩しにかかりました。
外交

(2) 汎ゲルマン主義v.s汎スラブ主義

青年トルコの革命が勃発すると墺はボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合し(1908年)、これに異議を唱えたセルビアとの対立が激化し、独が墺を露がセルビアを支持しました。このときは露が譲歩しましたが、露の支援するバルカン同盟(セルビア、モンテネグロなど)が独墺の支持するトルコを破り大幅に領土を獲得しました(1913年)。
汎ゲルマン主義と汎スラブ主義は1勝1敗で第一次世界大戦をむかえます。

(3)総力戦

1914年6月墺の皇太子がボスニアのサラエボでセルビア人の青年に暗殺されたのを機に墺はセルビアに宣戦を布告しました。これを皮切りに独が墺を支持して仏と露に宣戦布告すると、英が独に宣戦布告しました。英仏露側を連合国、独墺側を同盟国といいます。墺と領土問題を抱えていた伊は連合国との密約に従い三国同盟を離脱し連合国側につきました。

ナショナリズムに火のついた国民国家どうしの戦争は前線での軍事的勝敗だけでは決着がつかず銃後にいる国民の動員力、生産力が大きく左右する史上初の総力戦となりました。戦争は大規模、長期化し新兵器の登場とあいまって凄惨なものとなりました。

1917年に独の無制限潜水艦作戦に反発するアメリカが連合国側について参戦するとその圧倒的な物量の前に独は劣勢となり、革命で露が離脱しても戦局を挽回できず、同盟国は相次いで降伏しました。独も革命で皇帝が亡命すると連合国と休戦条約を結びました。

こうして連合国の勝利で大戦は終了しました。

ロシア革命

戦争の長期化で社会不安が深刻化すると労働者が蜂起して各地に評議会(ソビエト)を組織し軍もこれに合流したため、1917年3月議会の多数を占める自由主義者らが臨時政府を樹立し皇帝ニコライ2世を退位させました(三月革命)。ロマノフ朝は滅亡し、ニコライ2世一家は後に処刑されました。

臨時政府が戦争継続を決めると、同年11月労働者や社会主義者からなるボリシェビキ(後のロシア共産党)が武装蜂起し臨時政府を倒してレーニンを中心とするソビエト政府を樹立しました(十一月革命)。ソビエト政府は議会を閉鎖して一党独裁体制をしき、ドイツと講和して大戦から離脱しました。

その後ソビエト政権は内戦と諸外国の干渉をはねのけ、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カフカスの各ソビエト国家が合流しソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました(1922年)。
こうして史上初の共産主義国家が誕生し、主要国もこれを承認しました。

その後ソ連はコミンテルンという国際組織を通じて各国の共産党を指導し各国にスパイを派遣して共産主義革命を煽動していきます。

ある程度ストーリーを把握したら、出来事の生じた理由も考えてみましょう。

例えば、なぜ欧州諸国は国民国家の建設を目指したのか、なぜアウェーで戦っている列強が短期間のうちにあれだけの広大な植民地を持つことができたのか、なぜ19世紀後半~20世初頭に植民地争奪戦が激化したのか、欧米以外でなぜ日本だけが列強の一員になれたのか、など今回は考えさせられることが多いように思われます。

このようなことを考えることによって歴史から教訓を得ることができ、また覚えた知識が印象に残り記憶が定着します。試してみてください。
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