ルネサンス・宗教改革・大航海時代 | 30分で学べる世界史まとめ

ルネサンス、宗教改革、大航海時代について、その意義と後世への影響を踏まえつつ具体的な出来事をみていきます。なお、大航海時代のところではたくさんの地名が出てきますので地図帳を見ながら読み進めてください。

ルネサンス・宗教改革・大航海時代_30分で学べる世界史まとめ

ルネサンス

(1)ルネサンスの意義

14~16世紀の西欧ではルネサンスと呼ばれる新しい文化運動がおこりました。これはもともとギリシャ・ローマの古典文化の復興運動でしたが、それをきっかけに人間を尊重する文化思想のヒューマニズム(人文主義)が芽生えました。
ヒューマニズは神への狂信的な信仰から人間の個性や理性を解放して自由で合理的な思想・文化を生みだし、その思想文化はやがて近代市民社会を形づくります。
ルネサンス

(2)イタリア・ルネサンス

ルネサンスは古代ローマの遺跡が多く残るイタリア、とくに東方貿易で富を蓄積した北イタリア諸都市で始まりました。また東方貿易を通じてギリシャ・ローマの古典文化を保存していたイスラム文化が流入し、さらにオスマントルコから圧迫を受けていたビザンツ帝国から古典を研究する学者が亡命してきたことがイタリアにルネサンスを引き起こす原因となりました。

まず中心となったのは毛織物工業で栄えた14世紀のフィレンツェでした。詩人ダンテが『神曲』を教会用語のラテン語ではなくフィレンツェのあるトスカーナ地方の方言で記し文学の新たな方向性を示しました。トスカーナ方言は現在の標準イタリア語のもとになっています。
その後ペトラルカが本格的にラテンの古典研究を開始し、ボッカチオの『デカメロン』では人間の物欲・色欲がありのまま描かれ近代文学の先駆となりました。

また大富豪メディチ家の支援で芸術が発展し、ルネサンス様式と呼ばれる建築様式が生まれ花の聖母大聖堂などが建立されました。絵画や彫刻は教会の付属物の地位から独立し、陰影や遠近の表現技術が発展して人間や自然が正確に描写されるようになりました。

その後ローマやベネチアにも広まりローマ教皇や大商人の支援でレオナル・ド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの芸術家が活躍し、聖ピエトロ聖堂がルネサンス様式の建築物として大改築されました。

しかし15世紀末のフランスの侵攻(イタリア戦争)による混乱と新航路の開拓による地中海交易の衰退で北イタリアのルネサンスは16世紀には下火となりました。
イタリアのルネサンスは大商人やローマ教皇の支援で展開したため貴族的な趣味の段階にとどまり社会の変革をもたらすまでには至りませんでしたが、その精神はアルプス山脈を越えて西欧に引き継がれました。

(3)西欧のルネサンス

西欧ではイタリア以上にヒューマニズムの影響が強く、教会や社会批判が展開されました。オランダのエラスムスは聖書の原典を研究し『愚神礼賛』の中で聖職者の腐敗を批判し、ドイツでもロイヒリンらが聖書研究に道を開き、フランスのラブレーも教会批判を展開しました。これらは後の宗教改革につながります。

またスペインのセルバンテスやイギリスのトマス・モアが批判文学を描き、フランスのモンテーニュは『随想録』で人間性を考察し、イギリスのシェークスピアは人間像を描いた名作を多く残しました。

(4)科学、技術の発展

自由で合理的な思想によって自然の観察や実験が重んじられたため、この時代には科学と技術が発展しました。

トスカネリが地球球体説にもとづいて地図を作成し、コペルニクスやガリレオが地動説を説き天動説を中心としたカトリック的宇宙観に異を唱えました。

また火器、羅針盤が実用化されて実戦や大洋航海で活躍し、グーテンベルクによって発明された活版印刷術は聖書や新しい思想・知識の普及に活用され、ヨーロッパの発展に貢献しました。

宗教改革

(1)宗教改革の意義

ルネサンス期に聖書研究が進み世俗化するカトリック教会に対する不満が高まると、従来のカトリックの権威を否定し新たな信仰の在り方を模索する運動が生じました。
この運動は当初ただの宗教論争で、ルネサンス同様に人間の精神や文化の革新運動でした。しかし教会は領地を持つ封建諸侯でもあったため、ルネサンスのように文化面にとどまらず政治や社会にまで影響を及ぼし国家統一や国家の分裂を促進したり農民反乱や戦争を引き起こしたりしました。

宗教改革により西欧はカトリックとプロテスタントに分裂し、中世以来のカトリック教による統一性は完全に失われました。
ヨーロッパの秩序は、対等な関係にある主権国家どうしの条約によって決められていくようになりました(主権国家体制)。
バチカン

(2)ドイツの宗教改革

教皇レオ10世は聖ピエトロ聖堂の改築資金を得るためドイツで贖宥状を販売しました。贖宥状とは教会が発行する罪のあがないを証明する書面のことで、その販売収入は教会の貴重な財源でした。とくにドイツは国家統一が進まず皇帝権が弱かったため、贖宥状の販売が容易で教会から搾取されていました。

そこで大学教授のルターは、人は儀式や善行ではなく信仰によって救われると説き贖宥状を販売する教会を批判し(1517年)、さらに公開討論中に勢い余って教皇の権威まで否定しました。そのためローマ教皇から破門され、教皇に同調した皇帝によって法律上の権利まで剥奪されました。しかしルターは皇帝と対立するザクセン選帝侯に保護され、聖書のドイツ語訳を完成させました。現代の標準ドイツ語の文章語はルターが翻約に用いたザクセン地方の方言がもとになっています。

皇帝カール5世は一時的にルター派を承認しましたが、再び禁止したためルター派は抗議しました。そこからルター派はプロテスタント(「抗議する人々」)と呼ばれ、後には非カトリックの新教徒全般がそう呼ばれました。ルター派の諸侯・都市は同盟を結び皇帝や旧教諸侯と戦争を繰り広げました(シュマルカルデン戦争)。その結果、アウグスブルクの和議が結ばれ諸侯と都市はカトリックとルター派いずれかを選択できることが決まりました(1555年)。ただしルター派以外は認められず、また個人には信仰の自由はなく諸侯と都市の選択に従うことが義務付けられました。

ルター派はその後北欧諸国にも広まりました。

(3)スイスの宗教改革

スイスは14世紀にハプスブルク家から自治を勝ち取り事実上、独立していました。

そこにフランスの人文学者カルビンが聖書研究に対する迫害から逃れるため亡命し宗教改革に着手しました。カルビンは、人間の救済は神の絶対的意志により予定されていて教会の権威で変えることはできないと説きカトリック教会を否定しました(予定説)。また世俗的な職業を救済の確信につながるものとして尊重し禁欲的な勤労によって神の恩恵である富を蓄積することは信仰上正しいと説きました。

営利・蓄財を肯定するカルビンの説は新興の商工業者や富裕農民層に支持され、後の資本主義の成立に影響を与えたと評価されています。

カルビン派は西欧各地に広まりルター派以上に大きな影響を残しました。

(4)イギリスの宗教改革

国王ヘンリー8世は教皇に離婚の承認を拒否されると、首長令を議会に認めさせ王自身が国内の教会の首長になることを宣言し教皇との関係を断ちました(1534年)。さらに修道院を解散させその土地と財産を没収して王室財政を強化しました。
その後カルビン派の影響を受けて祈祷書が作成され、さらにエリザベス1世は礼拝を統一し(1559年)、信仰箇条を定めてイギリス国教会を確立させました。
官僚は国教徒に限定され、カトリックやカルビン派は迫害されました。

(5)反宗教改革

カトリック教会は宗教改革に対抗するためトリエントで公会議を開き、教会の粛正を図る一方で教皇の至上権と教義を再確認し宗教裁判を強化して異端を厳しく取り締まることを決めました。
またイグナチウス・ロヨラらが設立したイエズス会はカトリックの防衛とともに、アジアやアメリカ大陸での布教に努めました。

大航海時代

15世紀以降ポルトガルを先頭にスペインやイギリスなど外洋に面した国々が新航路を開拓しアジアやアフリカ、アメリカへ進出しました。

ヨーロッパでは肉の保存に必要な香辛料の需要が高まりイスラム商人を介さずに入手することが望まれていました。また金銀や宝石、絹などの奢侈品のほか、マルコ・ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』にある「黄金の国」伝説や東方のキリスト教国家の王プレスタ―・ジョン伝説などがヨーロッパの人々に東方へのあこがれを抱かせ新航路開拓を促しました。
これを可能にしたのは強力な王権による保護・支援とイスラムから取り入れた造船・航海技術の発展でした。

これ以降、ヨーロッパと非ヨーロッパが直接の交易や植民地支配を通じて一体化し、本格的に「世界史」が始まります。
大航海

(1)ポルトガルとインド航路

ポルトガルは、イスラム教徒からの領土奪還をめざす国土回復運動(レコンキスタ)の最中の1143年に建国されました。戦争を通じて建国されたので、王権が強くいち早く中央集権体制を築きました。また13世紀にはレコンキスタが終了していました。
またジェノバ商人がフランドル地方との交易中継地として多く滞在し、彼らから航海術
と資金を入手しました。
このような事情からポルトガルは他国に先駆けて大航海に乗り出すことができました。

エンリケ航海王子らは王の命でアフリカの北端セウタを占領し、アフリカへの進出を開始しました(1415年)。その目的は金鉱とプレスタ―・ジョンの国を探すことであったといわれています。ここからアフリカ西海岸の探検が始まり、1488年にバーソロミュー・ディアスがアフリカ大陸の南端、喜望峰に到達しました。そして1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回りイスラム商人の水先案内でインド西岸のカリカットに到達しました。これによりインド航路が完成しヨーロッパとアジアが直結しました。
また、ガマの後継者に指名されたカブラルは途中で暴風にあいアメリカ大陸のブラジルに漂着し、そこをポルトガル領と宣言しました(1500年)。

ポルトガルは火器などの武力を用いてイスラム商人を排除し、インドのゴア、マレー半島のマラッカを占領しモルッカ(香料)諸島(現在のインドネシア)に進出しました。さらに中国・明との交易を開始しマカオに拠点を設け(1557年)、中継貿易に従事しました。

香辛料をイスラムやイタリアの商人を介さずに入手できたので、莫大な利益を上げ16世紀前半の首都リスボンは大いに繁栄しました。

しかし交易と一緒にカトリック教の布教にも熱心であったため現地のイスラム教徒の抵抗にあい繁栄を維持することはできませんでした。

(2)スペインと新大陸到達

スペインはカスティリャ王国とアラゴン王国の合併により成立しました(1479年)。1492年にイスラムの最後の拠点グラナダを占領しレコンキスタを完了させました。

そんな中、ジェノバ生まれのコロンブスはトスカネリの地球球体説にもとづき西回りでのインド航路開拓を提案し、イサベラ女王の支援で航海を開始しました(1492年)。
コロンブスはサンサルバドル島に降り立ち、そこをインドと信じ現地の人をインディオと呼びました。しかしアメリゴ・ベスプッチの探検によって、それが未知の大陸であることが判明しました。その大陸はアメリゴの名にちなみ「アメリカ」と名付けられました。

またポルトガル人マゼランは王の命により西回りでモルッカ諸島へ向かいました。アメリカ大陸最南端(マゼラン海峡)を経由して太平洋に出てフィリピンに到達しました。マゼランはここで戦死しましたが他の乗組員が1522年にスペインに帰還し、地球が球体であることが実証されました。

その後スペインはアメリカ大陸に征服者を送り込み開拓と植民活動を進めました。まずコルテスが中央アメリカのユカタン半島にあったアステカ帝国を滅ぼし(1521年)、ピサロが南米ペルーにあったインカ帝国を滅ぼしました(1533年)。
植民者はエンコミエンダ制と呼ばれる大農園経営を行い、原住民を事実上奴隷にして小作労働をさせたり金銀鉱山の採掘をさせたりしました。過酷な労働と植民者が持ち込んだ疫病のために多くの原住民が犠牲となり、とくにカリブ海の島々では原住民の絶滅が多発しました。そこでスペインはポルトガルからアフリカの黒人奴隷を購入し不足する労働力を補いました。カリブ海の島々に黒人が多いのはそのためです。

スペインによってジャガイモ、トマト、タバコなどのアメリカ原産の農作物がヨーロッパに輸入され新たな食文化と嗜好が生まれました。
また大量の銀が輸入されたため、ヨーロッパの銀価格が暴落し物価が数倍に騰貴しました。これを価格革命といいます。
そして商業の中心が従来の地中海から大西洋に移りイタリアやドイツの都市が衰微しました。また都市共和国では多額の資金を要しさらに危険の伴う遠洋航海には対応できないため、経済の主体が都市共和国から中央集権国家に移行しました。価格革命を含めたこれら商業上の変化を商業革命といいます。

(3)イギリスとフランスの北米探検

ポルトガルやスペインに後れを取ったイギリスは、北米大陸を経由して太平洋からアジアに至る北西航路の開拓を計画しイタリア人のジョヴァンニ・カボートを北米大陸に派遣しました(1497年)。カボートはニューファンドランド島やノバスコシアに到達しました。計画は失敗しましたが、この探索を根拠に北米大陸の領有権を主張し17世紀以降に植民を開始します。

フランスも北西航路の開拓のため、ジャック・カルティエを派遣しました(1534年)。カルティエはセントローレンス湾を探索し付近を「ヌーベル・フランス」と名付けフランス領と宣言しました。二度目の探検ではセントローレンス川を遡ってケベックに至り、この付近を「カナダ」と名付けました。
その後、毛皮を求めて商人が訪れるようになりましたが、本格的な植民は17世紀以降になります。
まとめ図

ルネサンス、宗教改革、大航海時代は近世の始まりとされる出来事であり、これらを起点に近代そして現代へとつながります。ですので、これまで以上に時間の流れつまりストーリーを理解することが必要です。出来事の起こった背景と後世への影響を意識して各々の出来事を因果でつなぎ合わせることを心がけましょう。上の図のように自分なりにフローチャート図を作成して出来事の相関関係をまとめてみるのも一つの方法です。
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