先史、古代オリエント、古代ギリシャ・ローマ | 30分で学べる世界史まとめ 

古代オリエントと古代ギリシャ・ローマを中心に先史時代からみていきます。遠い昔のことのように思えますが現代に生きる私たちにも影響を及ぼしています。その点を意識してみていきましょう。

先史、古代オリエント、古代ギリシャ・ローマ_30分で学べる世界史まとめ

先史

約700万年前、霊長類の中から直立歩行するものが現われました。自由になった前足は手に進化し、やがて打製石器などの道具を作り、火をおこせるようになったので食生活が豊かになりました。
私たち現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生したのは約20万年前と言われています。この間私たちとは異なる種の人類がいくつか現れましたが全て絶滅しました。私たちは唯一生き残った人類なのです。

紀元前(BC)7000年頃西アジアで農牧と定住生活が始まり集落ができました。貯蔵が可能な農作物は私有財産となり人々の間に貧富の差を生じさせました。また土地や水利をめぐって集落どうしが戦争をしました。貧富の差と戦争は貴族、奴隷などの身分を生みました。貴族は防衛や祭祀のため集住し、そこに都市国家が誕生しました。都市国家では政治や宗教儀式が行われ、その記録をとるため文字が発明されました。

以後、人類の活動は文字で記録されることになり、ここから歴史が始まります。

〇世界史では様々な民族を比較言語学上の分類に基づいて区分することがあります。以下は主な言語をグループ化したものです。
語族

古代オリエント

古代オリエントの文明は後のヨーロッパ文化とイスラム文化の源流となります。

古代オリエントは灌漑農業を土台に成立しました。治水・灌漑には多くの人手と統一的な管理が必要です。そのため多くの人を束ねる強力な指導力を持った中央集権的な専制国家が多く建てられました。

(1)メソポタミア文明

星占
メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川にはさまれた地域で現在のイラクのあたりです。BC5500年頃に降水量の少ない南部下流域で雪解け水による氾濫を利用した灌漑農業が始まったといわれています。

BC4000年頃には民族系統不明のシュメール人がウル、ウルクなどの都市国家を形成し都市文明が栄えました。
ここでは青銅器や楔形文字、太陰暦、六十進法が使われ後世に大きな影響を及ぼしました。楔形文字はその後公用文字として多くの民族に使用され、六十進法は現在の時間の単位にも使用されています。

BC2300年頃セム系アッカド人がシュメール人の都市国家を征服し初めて統一国家を建てました。
その後ウルを中心にシュメール人が独立しウル第三王朝が成立しました。最初の法典「シュメール」法典が整備され統治機構が整備されましたが、民族系統不明のエラム人の侵入を機に滅びました。
BC1900年頃セム系アモリ人がバビロニア王国(バビロン第一王朝)を築いて統一し、第6代ハムラビ王のときに最盛期となりました。
BC1475年頃民族系統不明のカッシート人がバビロンを征服・統一し(バビロン第三王朝)、エジプトなどと並ぶ強国となりました。

一方、北部ではセム系アッシリア人が商業活動などで富を蓄積して台頭し、BC8世紀末にバビロニアを征服して初めてメソポタミアを統一しました。首都ニネべの王宮には楔形文字が記された多数の粘土板が所蔵され、世界初の図書館と言われています。

(2)エジプト文明

紀元前(BC)5000年頃からナイル川の定期的な氾濫で堆積した肥沃な土地を利用して灌漑農業が始まりました。

BC3000年頃いくつかの小国家(ノモス)が統合されて統一王国が誕生しました。BC3世紀の歴史家マネトの「エジプト史」によれば全部で31の王朝があったとされています。
そのうちとくに栄えた三つの時期を古王国時代、中王国時代、新王国時代といいます。
有名なピラミッドは古王国時代に作られました。
新王国時代に地中海東岸に進出して領土は最大となりましたが、以後は内紛と南のヌビア人の侵入などで衰退しました。

エジプトでは後世に重要な影響を与える文化が生まれました。

まずナイル川の氾濫時期を予測するため太陽暦が作られ、すでに1年を365日・12月としていました。太陽暦は後にローマ帝国で採用されて現在にいたります。

またヒエログリフ(神聖文字)が作られました。
これらは現在のアルファベット、アラビア文字のもととなり、一説にはインドの文字もエジプト由来とされています。その説に従えば漢字文化圏以外の人々はすべてヒエログリフから派生した文字を使用していることになります。

この他、洪水後の耕地分割のため測量術が発展し、後にギリシャに伝わり幾何学として発展しました。石造建築、パン、ワイン、ビールなどの西洋の文化は大部分エジプト由来です。

(3)その他の文明

〇ヒッタイト

BC17世紀アナトリア高原(トルコ)に建国した印欧語族のヒッタイト人はオリエントで初めて鉄器を本格的に使用しました。ヒッタイト王国滅亡を機に製鉄技術が各地に流出し鉄器が広まりました。

〇アラム人

セム系アラム人はBC1200年頃エジプトやメソポタニアなどを結ぶ陸上交易で活躍しました。アラム語はギリシャ語にとって代わられるまでオリエントの公用語となり、インドや中央アジアでも使われました。さらにヒエログリフに由来するアラム文字は現在のアラビア文字のもととなりました。

〇フェニキア

セム系フェニキア人はBC15世紀頃地中海東岸に都市国家を築き地中海交易で活躍し、高度な造船・航海術を持っていました。ヒエログリフに由来するフェニキア文字はギリシャ文字やローマ字のもととなりました。

〇ヘブライ(イスラエル)

セム系ヘブライ人はBC1000年頃カナン(パレスチナ)に王国を建設しました。彼らは唯一神ヤハウェを崇拝する一神教ユダヤ教を信仰していました。これはのちのキリスト教の母体となり、イスラム教にも影響を与えました。

(4)オリエントの統一

アッシリア王国はエジプトを征服して史上初めてオリエントを統一しました(BC671年)。しかし強圧的な支配が反感を買い、カルディア(新バビロニア)とメディア(イラン高原)連合軍の攻撃で滅亡しました(BC612年)。

アッシリア滅亡後は、エジプト(第26王朝)とリディア(アナトリア高原)を加えた四国分立時代となりました。

その後、メディアから独立したアケメネス朝ペルシャ帝国がこれらを滅ぼしオリエントを統一しました(BC525年)。

古代ギリシャ・ローマ

(1)古代ギリシャ

ギリシャには大河がなく、山が海岸まで迫って土地が狭小なため穀物栽培に不向きです。一方で海岸線が入り組んでいるため良港に恵まれています。そのため古くから海洋交易が盛んであり、ギリシャは商工業中心に発展しました。
ギリシャ

〇エーゲ文明

オリエントの影響を受けエーゲ海周辺で高度な青銅器文明(クレタ文明、ミケーネ文明、トロヤ文明など)が発展しました。これらはホメロスの叙事詩「イリアス」などのギリシャ文学の題材に取り上げられ、後のギリシャ文化に影響を与えました。
しかしBC12世紀外敵の侵入や自然災害などで滅亡しました。

〇ポリス社会

エーゲ文明崩壊後からBC8世紀頃までは文字資料がないため不明です(暗黒時代)。

しかしこの間に鉄器の普及、ギリシャ文字の発明、植民市の建設ラッシュ、都市国家ポリスの形成などがありギリシャ社会が発展しました。

ギリシャは複数のポリスで構成され、オリエントのような統一国家は生まれませんでした。
ギリシャは商工業中心のため灌漑農業中心のオリエントのように強力な指導者や大規模な共同作業は必要なかったのです。しかし共同で神を祭りまたオリンピア競技を開催するなど同族意識を持ってまとまっていました。実際アケメネス朝ペルシャの侵攻を協力して撃退しました(ペルシャ戦争)。

また強力な指導者や大規模な共同作業は必要ないため、ポリスの政治ではオリエントのような専制体制はしかれず基本的に共和制でした。

一方で奴隷社会であった点はオリエント同様です。交易で多くの奴隷を購入しあらゆる労度を奴隷に委ねました。おかげで市民は文化活動に専念できました。自由な立場の市民により文学、宗教、演劇、美術など人間を中心にした創造性・芸術性豊かな文化が築かれました。また合理的に事物が体系づけられ高度な哲学と科学が生まれました。

〇アテネの発展

最も代表的なポリスはアテネです。

当初アテネは王制・貴族制でしたが、商工業で豊かになった平民が重装歩兵として活躍し影響力が増すと徐々に民主化されていきます。
特にペルシャ戦争では無産市民が船の漕ぎ手としてサラミスの海戦などで活躍しアテネ海軍の勝利に貢献しました。そのかいあってアテネはペルシャ戦争で指導的役割を果たし、自ら盟主として対ペルシャ同盟(デロス同盟)を結成しました(BC478年)。

これら無産市民の活躍により戦後アテネでは、全市民(成年男子のみ)からなる民会が最高議決機関とされたほか、役員を抽選にして日当が支払われ、また将軍は選挙で決められました。アテネ直接民主制の完成です

またアテネはデロス同盟の金庫をアテネに移してその資金を流用していたので繁栄しました。

〇ポリス社会の衰退

しかし同盟資金の流用はスパルタをはじめ他のポリスの反感を買いました。スパルタは強力な軍国主義体制をとり近隣のポリスと同盟を結成して(ペロポネソス同盟)、アテネに対抗する力を持っていました。そしてアテネとの戦争(ペロポネソス戦争)に勝利しアテネに代わってギリシャの盟主になりました。
しかしスパルタはテーベに敗れ覇権を失います(BC371年)。

その後もポリス間の抗争が続き、国土は荒廃し市民は没落したためポリス社会は崩壊していきます。

そしてBC338年に北方のマケドニア王国に支配されました。

(3)ヘレニズム世界

マケドニア王国のアレクサンドロス大王は東方へ侵攻しアケメネス朝ペルシャを滅ぼしました(BC330年)。
大王は各地にギリシャ人を入植させギリシャ文化を広めました。またギリシャ語を公用語にしました。一方で原住民との融和を図るためペルシャの行政機構や礼拝を継承しペルシャ人を高官に採用しました。

こうしてギリシャとオリエントは融合し統一されました。
この融合世界をギリシャ人の自称「ヘレネス」にちなみヘレニズム世界といいます。

BC323年にアレクサンドロス大王が亡くなると、帝国はプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、カッサンドロス朝マケドニアなどに分裂しました。

(4)古代ローマ

ローマ
〇初期共和制

都市国家ローマはBC8世紀中ごろイタリア系ラテン人によって築かれました。BC6世紀末異民族エトルリア人の王を追放し貴族共和制となりました。
その後、ギリシャ同様商工業の発展で裕福になった平民が重装歩兵として影響力を持ったことで民主化され、法律上の身分差別はなくなりました。

民主化が進められる中、重装歩兵の活躍でローマはイタリア半島を統一しました(BC272年)。

その後、当時西地中海の覇権を握っていたフェニキア人の植民都市カルタゴ(現在のチュニジア)との3度の戦争におよんだすえ、BC146年にこれを滅ぼしました(ポエニ戦争)。
また東方ではBC168年にマケドニア、BC64年にシリアを滅ぼしました。
こうして獲得した領土をローマは属州として支配し、地中海の覇権を握りました。

またイタリア半島内の同盟市にローマ市民権を付与しました。これでローマは都市国家から領土国家になりました(BC89年)。

〇共和制から帝政へ

属州が増えると有力者は総督や徴税請負人となって不正蓄財で富を得ましたが一般の市民は疲弊し没落しました。裕福な有力者は没落農民の土地を取得し、また属州からの奴隷を使って大規模農園を経営して(ラティフンディウム)ますます富を増やしました。
一方、没落した市民は将軍の私兵になりました。将軍たちは派閥抗争を繰り広げ「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安が続きました。

これを沈めるため将軍カエサルはポンペイウス、クラッススと第一回三頭政治を始めました。しかしクラッススが戦死するとポンペイウスがカエサルに滅ぼされ、そのカエサルも彼の独裁を恐れる人々に暗殺されました。

カエサルの死後、養子のオクタビアヌスがアントニウス、レピドゥスと第二回三頭政治を始めましたが、レピドゥス失脚後アントニウスを破り内乱を収束させました。
またアントニウスと同盟を結んだエジプトを滅ぼし地中海世界を統一しました(BC30年)。

〇帝政ローマ

オクタビアヌスは元老院からアウグスツス(尊厳者)の称号を贈られました(BC27年)。帝政ローマの始まりです。彼は実権を持ちながらも共和制の伝統を重んじ元老院と協力する姿勢を取りました。これを元首政といいます。

政治は安定しローマは五賢帝時代(96~180年)に最盛期となります。

しかし、その後は皇帝の暗殺、クーデターが起こり、また辺境に配置された軍団が勝手に皇帝を擁立するなどして政治が混乱しました。もともと皇帝は軍司令官なので帝政の開始によって軍の発言力が強くなっていました。
さらにペルシャ人やゲルマン人と戦いが激しくなると地方の軍団に徴兵などの権限を与えたため、軍団の自立化が進んでいたのです。
とくに235~284年は元老院から承認された者だけでも20人近く、勝手に皇帝を自称した者を含めれば50人近くも皇帝が擁立されるなど混乱が続きました(軍人皇帝時代)。

この混乱を収束させたのがディオクレティアヌス帝です。彼は東方的な皇帝崇拝や元老院の無力化、官僚制の整備などで皇帝の権威強化に努めました。
この頃の帝政を専制君主制といいます。
また帝国を四分し地方軍団への監視が行き届くようにしました。

その後4人の皇帝どうしの内乱が起きましたが、コンスタンティヌス帝がこれをおさめ帝国を統一しました。
また安定的な税収確保のため小作人(コロヌス)の移動を禁止し身分を固定しました。
しかしこれは土地所有者の領主化と帝国の分断を促しました。とくに軍閥割拠により商業や都市の衰退した帝国西部で顕著になりました。
西部では徐々に中世封建社会に向かっていきます。

そして395年テオドシウス帝の死に際し帝国は東西に分割されましたが、476年に西ローマ皇帝はゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって追放されました。オドアケルは形式上東ローマ皇帝に服しましたが、西部は実質的にローマ帝国の支配から離れました。
(東)ローマ帝国は最終的には1453年まで存続しました。

〇ローマ法

ローマが残した最大の文化遺産は法であるといわれます。
6世紀に編纂された「ローマ法大全」はその後のヨーロッパ各国に受け継がれ、現在でも非ヨーロッパ各国を含めて法律の原典として尊重されています。

(5)キリスト教

1世紀初頭、イエス・キリストは偏屈な選民思想と形式的な律法主義に陥っていたユダヤ教を批判し民族・階級を超えた神の普遍的愛を説きローマ領内の人々に伝道しました。この教えは多くの人々に支持され大きな影響力を持つようになりました。

ローマ帝国は当初弾圧しましたが、これを統治に利用しようと考え313年に公認し392年には国教としました。
また325年にはニケーア公会議を開催し、神・キリスト・聖霊は一体であるとする三位一体説(アタナシウス派)を正統とし教義の統一を図りました。

キリスト教は後のヨーロッパ文化の土台となります。

オリエントは現在では一般的には使用されない地名であり、ギリシャとローマは現在ヨーロッパの一部です。それにもかかわらず、これらがなぜ独立した地域史として取り上げられるか?その理由を現在に照らし合わせて考えながら学習をすると理解が深まると思います。
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