中世ヨーロッパ | 30分で学べる世界史まとめ

中世ヨーロッパの歴史について主に西ヨーロッパを中心にみていきます。ヨーロッパ史は中国史と並ぶ重要分野ですので注意深く学習しましょう。

西ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン民族の大移動

4~5世紀頃、主にヨーロッパ東部に住んでいた印欧語族のゲルマン人は部族単位で大挙して移動し、分裂状態で統治能力を失っていた西ローマ帝国領内にいくつかの部族国家を建てました。
主なゲルマン人の部族国家は以下のとおりです。
ゲルマン民族
その中で最も発展したのはフランク王国でした。フランク族はもともとライン川東岸に住んでいて、故地を維持したまま北ガリア(フランス)へ侵出したので移動というより拡張でした。他の部族と異なり基盤となる拠点を維持していたことが有利に働いたと考えられます。

フランク王国とカトリック教の提携

フランク王国の建国者クローヴィスは496年にキリスト教アタナシウス派に改宗しました。旧ローマ帝国領内の人々と教会の支持を取り付けるためです。そのおかげかフランク王国は異端のアリウス派(神とキリストは別と考える宗派⦆を奉ずる西ゴート王国やブルグント王国を駆逐して南ガリアに領土を拡大しました。

キリスト教の教会は総大司教の置かれた五つの教会で統轄され、とくにローマ総大司教は使徒(イエスの弟子)ペテロの後継者として高い権威を持ち「教皇」と呼ばれました。
ローマ教会は一応ビザンツ(東ローマ帝国)皇帝に服していました。
しかしゲルマン教化のため十字架やイエスの像を使用していたので、皇帝レオ3世が聖像禁止令(726年)を発すると関係が悪化しました。そこでローマ教会はフランク王国に接近します。

フランク王国では7世紀頃からメロビング王家が内紛で衰え、代わって台頭したカロリング家のピピンがクーデターをおこし王位を奪いました(751年)。
ローマ教皇はピピンの王位を承認し、ピピンはその代償に土地を寄進しました(754年)。これが教皇領の始まりです。そして教皇レオ3世はピピンの子カールにローマ皇帝の帝冠を授けました(800年)。ビザンツ皇帝は当初否定していましたが812年に承認しました。
これによりフランク王国はビザンツ帝国と対等になり、ローマ教会はビザンツ皇帝から独立してローマ・カトリック教会が成立しました。

こうしてゲルマン民族の力とカトリック教の権威が融合し、西ヨーロッパ世界が成立しました。

封建社会

城
フランク王国は9世紀に三つに分割されました。その頃、北からはゲルマン人の一派ノルマン人、東からはウラル語族のマジャール人(ハンガリー人)が侵攻し、南からはイスラ勢力が迫ってきて西欧社会は混乱していました。

そこで農民は近くの有力者に保護を求めました。一方貴族や騎士などの有力者は保護の代わりに農民を隷属的に支配して自己の土地(荘園)を経営しました。貴族などの土地所有者は領主として農民に生産物の貢納(生産物地代)や直営地の耕作の義務(労働地代)のほか、人頭税や結婚税などの諸々の税を課しました。
また農民は移転や職業選択の自由を奪われ、領主に隷属しました。
このような隷属的農民を農奴といい、農奴を使用した土地経営を荘園制といいます。

また農民だけでなく小領主も有力領主に保護を求めました。小領主にとっては遠くの国王より近くの有力な領主に保護を求めたほうが安全です。そこで両者は契約により主君と臣下の関係を結び、臣下は軍役を奉仕し主君は臣下に封土(荘園)を与え保護することを約しました。

このような、荘園制を土台に領主間で主従関係が結ばれる仕組みを封建制といい、中世の西欧社会の基本でした。

封建社会では、貴族や騎士などの領主(諸侯)は税負担や国王の役人の立入りを拒むことができ(不輸不入の権)、荘園内の裁判権を有していたので、荘園は事実上独立国と同様で国王の権力は及びませんでした。

カトリック教による統一

教会
カトリック教は10世紀にはポーランドやハンガリーにまで拡散し西欧全体に広く浸透していました。一方で国王や諸侯は封建社会の下で互いに牽制していました。彼らは教皇の支持を得て自己の立場を強化しようと考え土地を寄進するなどして教皇にすり寄っていたのでローマ教皇の権威は絶大でした。封建制が教皇の権威をますます高めていたのです。

そのためカトリック教会が諸侯どうしの紛争を仲裁するなどして諸侯の割拠状態にあった中世の西欧社会をまとめていました。中世の西欧はカトリック教の権威で統一されていたのです。

その一方で聖職売買や贖宥状の頒布などの腐敗が進み、また狂信的な信仰によって自由で合理的な思想が廃れて迷信がはびこるなどの弊害が生じました。

十字軍

11世紀になると民族移動が収まり封建制とカトリック教の権威で西欧社会は成熟しました。すると異教・異端を討伐しカトリック教を広めようという機運が高まりました。そのために結成された各国の国王、諸侯の連合軍を十字軍といいます。この十字軍で西欧は対外膨張を試みます。

まず8世紀以来イスラム教徒に占領されていたイベリア半島奪還のためカトリック教徒が国土回復運動(レコンキスタ)をおこしました(イベリア十字軍)。この中でポルトガルとスペインが建国されました。
またドイツ人がエルベ川以東へ進出して異教徒のスラブ人を征服し(ドイツ東方植民運動)、13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸の異教徒を征服し領地を築きました。

そして最大の十字軍が聖地エルサレムを奪還するために結成された東方十字軍です。通常、十字軍という場合はこの東方十字軍を指します。
11世紀イスラム化したトルコ人がエルサレムを占領しビザンツ帝国に押し寄せると、ビザンツ皇帝はローマ教皇に救援を求めました。そこで教皇ウルバヌス2世の提唱により東方十字軍が結成され第一回の遠征が行われました(1096年)。一時的にエルサレムを占領し付近に十字軍国家を建てました。しかしイスラムの反撃でエルサレムを失い十字軍国家もすべて滅び(1291年)、東方十字軍は失敗しました。

十字軍の影響と中世社会の変容

王権の伸長と諸侯の衰退

十字軍は13世紀まで、約200年間断続的に続きました。長期の遠征で諸侯は多くの犠牲を払いまた多額の出費で疲弊しました。逆に国王は王権を利用して遠征費を集め、また諸侯の遺領を没収して王権を強化しました。以後、徐々に諸侯の割拠状態は解消され国内統一が進んでいきます。そして封建制は崩れ絶対主義の成立へつながります。

教皇権の衰退

十字軍の時代教皇権は絶頂でしたが、十字軍の失敗と十字軍の殺戮、略奪、人身売買など非法な振る舞いが明らかになると教皇への信頼が失墜しました。

そもそも教皇権は諸侯の割拠状態のおかげで高まったものなので、王権が強まるにしたがい衰退しました。そのため教皇がフランス国王に捕らえられ教皇庁がアビニョンに移されたり(教皇のバビロン捕囚)、別の教皇を擁立されたりしました(教会分裂・シスマ)。

また教会の腐敗に対する批判が高まり、14世紀後半イギリスのウィクリフがキリスト教の経典「聖書」を英訳し聖書にもとづく信仰と教皇支配からの離脱を主張しました。またドイツ領ボヘミア(チェコ)のフスも聖書にもとづく信仰を主張し、フスが処刑されると彼を支持する農民が暴動をおこしました(フス戦争)。これらは後の宗教改革に影響を与え、やがてカトリック教による西欧の統一は失われます。

都市と商業の発展

港
11世紀以降農村でも鉄の使用が一般化し、有輪犂や水車の使用、耕地を輪作して利用する三圃制の普及などで農業生産力が向上すると、生産者に余剰ができ交換経済が発展しました。交通の要衝などに市がたち、それはやがて都市となりました。

そして十字軍を機に遠隔地交易が始まり都市は発展しました。とくに十字軍兵士の輸送を担った北イタリアのベネチアやジェノバなどは地中海交易で香辛料、絹、宝石などの東方の奢侈品を持ち帰り大きな利益を上げました。そのため東方へあこがれが高まり、のちの大航海時代へとつながります。
また北ドイツのリューベックやハンブルクなどは北海・バルト海交易で海産物、木材、毛皮などの日用品を輸入し発展しました。
これら遠隔地交易の発展で内陸諸都市も発展しました。
また交易の発展で主要輸出品の毛織物や銀の生産地が発展しました。毛織物ではフランドル地方(ベルギー)やイタリアのフィレンツェ、銀ではドイツのアウグスブルクが有名です。

都市と商工業の発展により貨幣経済が普及すると有力な都市は貨幣と引き換えに自治を取得し自治都市となりました。さらに周辺の農村や小都市を併合し都市共和国にまで発展しました。

荘園制の解体

14世紀頃から貨幣経済が農村にも浸透すると領主は貨幣収入を望むようになり、農奴に労働地代にかわり貨幣地代を課すようになりました。労働地代という強制労働がなくなったことで農奴の負担は軽減され、豊かになる者も現れました。彼らは高い解放金を払って自由を得ました。その穴埋めに領主は残った農奴への地代を引き上げたため、農奴の逃亡、反乱が相次ぎました。領主は農奴を使用した経営の非効率性に気づき、安い解放金で農奴を解放し彼らに土地を貸与することで地代収入を得る方策に切り替えました。
こうして領主・農奴の関係から地主・小作人の関係に変わり荘園制は解体されました。

東方文化の流入

十字軍をつうじてイスラムやビザンツ帝国と接触したことでギリシャ文化やイスラムの高度な科学が西欧にもたらされました。それがやがてギリシャ・ローマの古典研究を盛んにしてルネサンス運動につながります。

西欧各国史

イギリス(イングランド)とフランス

フランス(仏)の貴族ノルマディー公ウィリアムがイングランド(英)のアングロ・サクソン族を征服しノルマン朝を開きました(1066年)。これが現在の英王室の先祖です。仏の貴族が英王を兼務したので仏領内にも英領がありました。
王は抵抗した貴族の土地を没収し功臣に分配したので王権が強く独自の封建制度が成立しました。その後王の失政が続いたため貴族は協力して王に大憲章(1215年)と議会(1265年)を承認させました。
また英は13世紀にウェールズを占領し事実上支配下に置きました。

仏はフランク王国の分割(843年)でできた西フランク王国の後継国家です。カロリング家の断絶(987年)後カペー朝が開かれました。当初は諸侯の勢力が強く典型的な封建社会でしたが、13世紀頃から王による国内統一が進み王権が強化されました。
仏王はさらに毛織物工業で栄えたフランドル地方に進出しますが、そこに原料の羊毛を卸していた英王はこれを阻むため仏王位の相続権を主張して侵入しました(英仏百年戦争)。当初、仏は劣勢でしたがジャンヌ・ダルクの活躍に刺激された民衆の協力を得て仏王が勝利し英を追い出しました。また英に協力した諸侯の領地を没収し仏王権はさらに強化されました。

また、英でもばら戦争(1455~58年)という内戦で諸侯が没落し王権が強化されました。

両国は以降、中央集権国家に移行します。

ドイツとイタリア

ドイツ(独)はフランク王国の分割でできた東フランク王国の後継国家です。カロリング家の断絶後は有力諸侯の選挙で国王が選ばれました。ザクセン族のオットー1世が国王のときローマ皇帝の帝冠を授けられ(926年)、以降独王がローマ皇帝を兼任することになりました。そのため王はイタリアの統治を優先し国内統治を諸侯に委ね、また遠征の協力を得るために諸侯に関税権や貨幣鋳造権まで与えたため諸侯の領地は独立国のようになりました。そしてカール4世の出した金印勅書(1356年)により皇位は7人の有力諸侯(選定候)による選挙で決められました。
このように英・仏と異なり独では王権が弱まり分断が進みました。
ただ諸侯の領地(領邦国家)内では中央集権化が進みました。
そして1438年にオーストリア公のハプスブルク家が皇位につくと皇位は事実上世襲されました。ハプスブルク家は婚姻と相続により裕福なネーデルランドを獲得し、ボヘミア王、ハンガリー王さらにはスペイン王を兼任して欧州随一の勢力となりました。

イタリア(伊)北部はフランク王国の分割でできた中フランク王国の領土となりました。さらに中フランク王国も3分割されて伊王国ができました(855年)。875年にカロリング家が断絶すると混乱状態となりましたが、独王のオットー1世が伊王となり、以後独王が伊王を兼ねました。しかし教皇の影響力が強いため諸侯は教皇党(ゲルフ)と皇帝党(キベリン)に分かれて抗争し、分裂状態となりました。しかし13世紀頃から東方貿易が盛んになったことから都市が発展し経済や文化が栄えました。
伊中部は教皇領で、南部ではノルマン人が両シチリア王国を樹立しました(1130年)。

東ヨーロッパ

ビザンツ帝国

帝国は1453年にトルコ人に滅ぼされるまで続き、約1000年間存続しました。その間イスラム教徒の侵攻を防ぎ、キリスト教世界を守護したことは歴史上評価されています。

また帝国はギリシャ語を公用語とし、古代ギリシャの古典文化を保存しました。また6世紀ユスティニアヌス1世の時代に「ローマ法大全」が編纂されローマ法の集大成が図られました。これらは十字軍の影響や学者の亡命などで西欧に伝わり、ルネサンス運動に影響を与えました。

聖像禁止令をめぐってコンスタンティノープル教会がローマ教会と対立して以降、独自の典礼を持つギリシャ正教が成立しました。帝国はこれを保護し東欧に広め、スラブ人のキリスト教化などに大きく貢献しました。
そして両教会は1054年互いに破門し合い、完全に分裂しました。

以上のビザンツ帝国の歴史的役割を理解しておきましょう。

東ヨーロッパの世界

印欧語族のスラブ人は6世紀頃東欧に移動し、西スラブ(ポーランド、チェコなど)、南スラブ(セルビア、クロアチアなど)、東スラブ(ロシア)に分かれました。西スラブはカトリック教、東スラブはギリシャ正教にそれぞれ改宗し、南スラブは両方に分かれました。
またウラル語族のマジャール人がハンガリーを建国し、ローマ帝国時代に移住したイタリック語派の人々(現在のルーマニア人)がワラキアとモルダヴィアを建てました。

この地域は民族移動が激しく11世紀以降も東からはペチェネグ人やクマン人などのテュルク系遊牧民さらに13世紀にはモンゴル人などが侵入し、南からはトルコ人が迫っていました。社会不安の中、人々は付近の貴族領主に保護を求めたため貴族領主の勢力が強く、また自給自足に頼りがちで商工業や都市が発展しませんでした。そのため封建制が続き西欧のように中央集権化は進みませんでした。
むしろ経済発展した西欧への穀物供給地となったため、貴族領主は農奴制を強化しました。

そのため東欧の発展は立ち遅れることになります。

中世ヨーロッパを特徴づけるのは封建制とキリスト教です。民族移動・異民族の侵入にともなう混乱が封建制を確立させ、封建制の下での分権体制がカトリック教の権威を助長した、というストーリーを覚えましょう。 この頃に現在のヨーロッパ各国の礎が築かれました。国別の歴史、例えばイギリス史、フランス史、ドイツ史などを自分なりにまとめてみるのもよいでしょう。
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