中東・イスラムとインド|30分で学べる世界史まとめ
中東・イスラムとインドの歴史ついてみていきます。あまりなじみがないかもしれませんが、日本や近代以降のヨーロッパにも影響を与えた地域ですのでしっかり学びましょう。
イラン民族の発展
ヘレニズム諸国の一つセレウコス朝シリアから、イラン系遊牧民が独立してパルチア王国を建てました(BC247年頃)。
その後、別のイラン系農耕民がササン朝ペルシャを建てパルチアを滅ぼしました(226年)。
両国はともに東西交易の中継地として栄えました。
ササン朝時代には文化も栄え、織物や金銀細工などの工芸品は日本にももたらされました。法隆寺の獅子狩文錦や正倉院の胡瓶(水差し)などがその例です。
しかしササン朝はビザンツ帝国との抗争で疲弊・衰退しアラブ・イスラム帝国に滅ぼされました(651年)。
以後、イランはイスラム化します。
イスラム世界
(1)イスラム教の成立
ササン朝とビザンツ帝国との抗争が激しくなると、最短ルートを避けてアラビア海―紅海―地中海を通る迂回ルートを利用した東西交易が活発になりアラビア半島の紅海沿岸(ヒジャース地方)にあるメッカやメジナなどの都市が発展しました。
しかし経済発展によりその地で暮らすセム系アラブ人の間に貧富の格差が広がり不満が高まりました。また交易を通じてキリスト教などを知った人々は寄付の強要を迫る従来の多神教に不信感を抱くようになりました。
そこでメッカの商人ムハンマドは神々の一つであったアラーを唯一絶対の神とする信仰をかかげ、従来の多神教や部族・階級の違いを否定して神の前での平等を説きました。これがイスラム教です。
この教えは貧困層からは支持されましたが富裕な支配層から迫害されたため、ムハンマドはメッカからメジナに逃れました(622年)。これをヒジュラ(聖遷)といい、イスラム暦元年とされています。
彼はそこで教団を設立しイスラム教をアラブ人に広めました。そしてムスリム(信者)を従えてメッカを占領し(630年)、アラビア半島を統一しました。
(2)アラブ・イスラム帝国の発展
〇アラブ帝国
ムハンマドの死後、その後継者(カリフ)が教団国家を率いてササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からエジプトやシリアなどを奪いました。
当初、カリフは有力者の合議で決められましたが(正統カリフ時代)、内紛が激しくなり4代目カリフのアリーが暗殺されるとカリフの地位はウマイヤ家の世襲となりました(661年)。
これに反対するムスリムはアリーの系統だけを正統なカリフと認めウマイヤ朝を否定しました。彼らは他のムスリム(スンニ派)から分派し、シーア派と呼ばれました。
ウマイヤ朝が成立すると聖戦(ジハード)と称する征服戦争を再開し中央アジアから北アフリカさらにイベリア半島まで支配下に入れました。
アラブ人は征服民として免税や年金などの特権を与えられ優遇されましたが、被征服民は改宗しても人頭税(ジズヤ)と地租(ハラ―ジュ)を課せられアラブ人と区別されていました。
〇イスラム帝国
ムハンマドの一族の子孫アブル・アッバースは、このようなアラブ優遇策に不満を持つイラン人の協力を得てウマイヤ朝を倒しアッバース朝を開きました(750年)。
ウマイヤ家の一部はイベリア半島に逃れ後ウマイヤ朝を樹立しました。
アッバース朝ではアラブ優遇策は廃止され、民族の差を超えたムスリム間の平等が実現して「イスラム帝国」としての実質が備わりました。
アッバース朝では外征より内政が重視され、官僚制の整備、治水・灌漑事業、東西交易の推奨などで政治が安定し経済が発展しました。首都バグダッドは東西交易の中心として人口200万人を誇る繁栄をきたし、優れた文化が生み出されました。
ギリシャの哲学、自然科学やインドの数学などの外来の学問書がアラビア語に翻訳され高度な自然科学が発達しました。それらは後にヨーロッパ文化の発展に貢献しました。アルコール、ソーダ、アルカリなどはアラビア語が起源です。
(3)イスラム世界の分裂―東方イスラム(アジア)
このように繁栄したイスラム帝国ですが、広大な国土を完全には統治しきれず次第に分裂していきます。
〇イランの自立
9世紀に入ると内紛によりアッバース朝のカリフの権威が衰え、逆にアッバース朝設立に貢献し官僚としてこれを支えたイラン人がサーマン朝などを樹立して自立・台頭しました。
さらにシーア派のイラン人が建てたブワイフ朝がバグダッドを占領しカリフから実権を奪いました。以後、カリフは実権を失い宗教的権威を持つのみとなりました。
〇トルコ人の台頭
しかしこれらイラン系王朝は奴隷として購入したテュルク系の人々に軍事を担わせ自らはほとんど戦っていませんでした。そのため、しだいにテュルク系の人々に政治の主導権を奪われます。
まずサーマン朝配下のテュルク系軍人奴隷が独立してアフガニスタンにカズニ朝を建てました(962年)。
また中央アジアのテュルク系部族が建てたカラ=ハン朝が10世紀中頃イスラムに改宗し、その卓越した戦闘能力でサーマン朝を滅ぼしました(999年)。
トルコ人の勢力範囲が西に広がり次第に中央アジアはトルキスタンと呼ばれるようになりました。
そこにいたイラン人はテュルク系王朝の官僚として仕え、あるいはイラン高原やパミール高原に追いやられました。パミール高原に追いやられたイラン人が現在のタジク人の祖先です。
そして中央アジアにいたトルコ系セルジューク族がそのイラン高原に侵攻し、さらにバグダッドを占領してブワイフ朝を滅ぼしました(1055年)。族長トゥグリル・ベクはカリフにスルタンという君主号を認めさせ実権を握りました。
セルジューク朝はさらにビザンツ帝国を破って小アジアに侵出しました。これに対しヨーロッパ諸国は十字軍を派遣し対抗しましたが、以後小アジアのイスラム化・トルコ化が進行します。
〇モンゴルの侵攻
12世紀セルジューク朝は一族の内紛で衰退しいくつもの小王朝に分裂しました。
そんな中、モンゴルが中央アジアから西アジアを征服し、さらにアッバース朝を滅ぼしました(1258年)。
モンゴルは広大な国土を分割統治し南ロシアにキプチャク・ハン国、中央アジアにチャガタイ・ハン国、西アジアにイル・ハン国を築き、14世紀頃までにイスラム教に改宗しました。
モンゴルの分裂・衰退後は、西チャガタイ・ハン国の武将であったモンゴル系部族出身のティムールが事実上帝位を乗っ取り、ティムール朝を開きました(1370年)。西チャガタイの統一後、さらにモンゴル帝国再興をかかげイル・ハン国内の地方政権を吸収し統一しました。
ティムール朝では一時政治が安定して経済・文化が発展し首都サマルカンドは栄えました。
〇イランと西トルキスタン
やがてティムール朝も分裂で衰退し、キプチャク・ハン国から分離独立したテュルク系ウズベク族に滅ぼされました。
その後、西トルキスタンではウズベク族のシャイバニー朝(ボハラ・ハン国)が成立し、後にヒヴァ・ハン国とコーカンド・ハン国が分離独立しました。
イランでは久々にイラン人の王朝(サファヴィー朝)が成立しました(1501年)。ここではシーア派が国教とされたため以後イランではシーア派が多数を占めることになります。
サファヴィー朝滅亡後(1736年)北東部では印欧語族のパシュトゥン人(アフガン人)が独立王朝(ドゥッラーニー朝)を建てました。これが現在のアフガニスタンです。
イランでは再びトルコ系王朝(カジャ―ル朝)が支配することにました(1796年)。
〇オスマン・トルコ
セルジューク朝の分裂後小アジアは小国の乱立状態でしたが、その中でオスマン・トルコが有力となりビザンツ帝国の内紛に乗じてバルカン半島に侵出しつつ小アジアを統一しました。
そしてキリスト教連合軍を破りスルタンの称号を名乗りました。
1453年にはコンスタンチノープルを占領し1000年続いたビザンツ帝国を滅ぼし、さらにメッカのあるヒジャース地方とエジプトを併合しました(1517年)。
16世紀スレイマン1世の時代に最盛期を迎え、領土は北アフリカやハンガリーまで拡大し最大となりました。
(4)イスラム世界の分裂―西方イスラム(アフリカ)
まずシーア派がモロッコで最初の独立王朝(イドリース朝)を建てたのに続き(788年)、チュニジアで起こったシーア派のファーティマ朝がスンニ派のアッバース朝に対抗してカリフを称し(910年)、エジプトを占領しました。
また後ウマイヤ朝もカリフを自称したため(929年)、一時期三つのカリフ国が並立しました。
ファーティマ朝は首都カイロを建設し本拠をエジプトに移し、さらにパレスチナやシリア、ヒジャース地方に侵出しました。
しかし12世になると十字軍やシリアのスンナ派(ザンギ朝)に攻められ、また内紛により衰退しました。そして内紛に介入したザンギ朝の将軍でクルド人のサラーフ・アッディーン(サラディン)に実権を奪われ滅亡しました(1171年)。スンニ派のサラディンはアッバース朝のカリフを承認したので、カリフの並立状態は解消されました。
サラディンはアイユーブ朝を建て十字軍とよく戦いましたが、彼の死後分裂、衰退しました。
そして十字軍との戦闘で活躍したトルコ系軍人奴隷のクーデターでアイユーブ朝は滅び、マムルーク朝が成立しました(1250年)。
マムルーク朝はスルタンの地位を得てイスラム世界の最大勢力となりましたが、オスマン・トルコに滅ぼされその地位を明け渡すことになりました。
後ウマイヤ朝が内紛により滅亡した後(1031年)、諸侯の割拠状態となりましたが、モロッコでアフロ・アジア語族のベルベル人がムラービト朝(1056~1147年)やムワヒッド朝(1130~1269年)を建てイベリア半島や北アフリカを支配しました。
ムワヒッド朝滅亡後は小国の割拠状態となり、イベリア半島はポルトガルとスペインに奪われ、北アフリカはモロッコを除きオスマン・トルコの支配下に入りました。
インド
(1)インダス文明
BC2500年頃インダス川流域にモヘンジョ・ダロやハラッパなどに都市文明がおこりました。道路や沐浴場などの公共設備が計画的に配置され、住民は綿織物を作り、青銅器や象形文字を使用していました。
この文明を築いた民族は不明で、BC1800年頃に衰退しました。
(2)アーリア人の侵入
BC1500年頃印欧語族のアーリア人がインド北西部のパンジャブ地方に侵入し先住民を征服して農耕生活を開始しました。BC1000年~500頃にはガンジス川流域に拡散し小国家を形成しました。この頃アーリア人は自然崇拝をもとにした多神教を信仰し、神々への賛歌や伝承などをまとめた「ヴェーダ」を編纂しました。
この「ヴェーダ」を聖典にしたアーリア人の多神教をバラモン教といいます。バラモン教のもとでバラモン(僧侶)を頂点にクシャトリヤ(王侯・戦士)、バイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)という身分・種姓(ヴァルナ)が形成され、後になると同じ種姓の中にさらに職業集団(ジャーティ)ごとに身分階層が作られました。職業は世襲で、異なるヴァルナ・ジャーティ間では通婚、共食も禁止されました。
これは後にポルトガル語をもとに「カースト制」と呼ばれるようになり、長くインド社会を拘束することになります。
(3)仏教の成立
BC6世紀頃になると政治的統合や商工業の発展などでクシャトリヤとバイシャの影響力が強まり、形式的な祭儀しか行わないバラモンに対する不満が高まりました。
そこで内面的思考を重視する哲学思想(ウパニシャッド哲学)が成立しました。ここで述べられている業(自業自得、因果応報)や輪廻転生(生れ変り)からの解脱という概念は仏教やジャイナ教などの新宗教の成立につながりました。
仏教はカピラ国の王子ゴーダマ・シッダールタ(釈迦)がおこした宗教です。釈迦はカースト制を否定し、四つの真理(四聖諦)を体得し正しい道徳的生活(八正道)を行えば人はみな等しく輪廻から解脱(悟り)できると説きました。
仏教はクシャトリヤなどに受け入れられインド各地に広まりました。
(4)仏教の発展
〇マウルヤ朝マガダ国
小国家のうちガンジス川流域のマガダ国が最も優勢となり、BC3世紀マウルヤ朝3代目のアショーカ王の時代にほぼインド全土が統一されました。
戦争の悲惨さを悟ったアショーカ王は仏教を国家の基本方針とし第3回仏典結集やセイロン島への布教などを行いました。
〇クシャーナ朝
1世紀中頃イラン系のクシャン族が北西部に王朝を築き、東西交易の中継地として栄えました。
その頃、仏教では、従来の出家・修行による自己の救済よりも衆生の救済を重視しようという改革運動が若手僧侶の間でおこりました。彼らは自らの宗派を大乗仏教と称しました。
クシャーナ朝の最盛期を築いた第3代カニシカ王はこの大乗仏教を保護し第4回仏典結集を行い、各地に寺院や仏塔を建てました。
また従来の仏教では偶像崇拝が禁止されていましたが、改革の流れを受け、この地に入植していたギリシャ人によって仏像が作られました。これら仏像などの美術品は、この地方の名をとってガンダーラ美術と呼ばれます。
大乗仏教と仏像は中央アジアから中国などに伝わり日本にも及びました。一方、従来の仏教は小乗仏教または上座部仏教と呼ばれ東南アジアに伝わりました。
(5)グプタ朝とヒンズー教の発展
カニシカ王以後クシャーナ朝は衰え小国が分立しましたが、4世紀にグプタ朝に統一されました。
この時代にインドの古典文化が完成し、法典(マヌ法典)が整備されたほか文学、天文学、数学が発展しました。とくに数学では0(ゼロ)の概念が発明されイスラムからヨーロッパに伝わり数学の発展に貢献しました。
またインドの文化は交易を通じて東南アジアにも伝わり、東南アジアのインド化が進みました。
仏教も引き続き盛んで、ギリシャの影響を排してインドの独自性を強調したグプタ様式と呼ばれる仏教美術が生み出されました。こちらも中国や日本に伝わり、法隆寺の壁画などに影響を与えました。
また文化の国粋化の中でヒンズー教が民衆の支持を受け発展しました。これはバラモン教に土着信仰や仏教の要素などを取り入れたもので、以後仏教をしのぎインドの主流となりました。
一方仏教は、その難解な教義が民衆から敬遠されるようになり、しだいに衰えていきます。
そして侵入してきたイスラム教徒によって寺院や仏像が破壊されると、仏教はほぼ消滅しました。
グプタ朝の衰退後は再び分裂状態に戻りました。
(6)イスラム教の流入とムガール帝国
7世紀にヴァルダナ朝のハルシャ王によって統一されましたが、王の死後インドは長い分裂状態に入りました。
南部では先住のドラビダ系民族が独自の王朝を築き、ヒンズー教が栄えました。
北部では8世紀頃からイスラム教徒の侵入が始まり、アフガニスタンのカズナ朝ついでゴール朝がインド北部を支配下に置き、イスラム教を広めました。
13世紀には初めてインドにイスラム王朝が成立しました。
イスラム王朝は改宗を強制しませんでしたが、文化・風習の違いなどからイスラム教徒とヒンズー教徒が対立するようになりました。
そんな中、中央アジアからティムールの子孫バーブルがインドに侵入しムガール帝国を建てました(1526年)。「ムガール」とはモンゴルが訛ったものです。
第3代アクバル帝のときインドの北部が統一されました。アクバル帝は宗教融和に努めヒンズー教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止しました。
第6代アウランゼブ帝のときインドのほぼ全土が統一され、アショーカ王以来の大帝国となりました。
しかしジズヤを復活させたためヒンズー教徒の反乱がおき、18世紀以後インドは再び分裂状態となりました。
この分裂状態の隙を突かれて、インドはやがてイギリスの植民地となっていきます。
インドは政治と宗教が深くかかわっています。どの王朝がどの宗教と結びついているかを意識して学ぶと、まとめて覚えることができて効率がよいです。