第二次世界大戦と現代の世界|30分で学べる世界史まとめ

第一次大戦後の世界から第二次世界大戦とその後の世界についてみていきます。ストーリーの把握とともに、なぜファシズムが成立したか、なぜ第二次世界大戦はおきたのか、などもあわせて考えてみてください。

第二次世界大戦と現代の世界_30分で学べる世界史まとめ

ベルサイユ体制と国際協調

第一大戦後の1919年6月、連合国とドイツとの間でベルサイユ条約が調印され、ドイツは一割以上の領土と全ての海外植民地を失い、軍備制限と賠償金を課せられました。
賠償額は当時のドイツのGNP(国民総生産)約20年分ともいわれる途方もない巨額のものでした。このような苛酷な仕打ちが第二次大戦の一因ともなります。

他の敗戦国とも個別に講和条約が結ばれ、民族自決の原則にもとづきオーストリアや旧ロシアの支配下にいた東欧の諸民族が独立しました。

またウィルソン大統領の提唱にもとづき国際連盟が設立されました。
しかしアメリカが議会の反対で参加せず、また軍事制裁の権限を持たないなどの欠陥があり国際平和機関としてあまり機能しませんでした。

これらの条約によって形成された国際秩序をベルサイユ体制といいます。

ベルサイユ体制では列強の協調路線が進み、軍縮条約のほかロカルノ条約やパリ不戦条約などの集団安全保障条約が結ばれました。

アジアの民族運動

(1)トルコとイラン

トルコのオスマン朝は第一次大戦で同盟国側についたため敗戦国となり、多くの領土を失ったうえ、財政までも列強の干渉を受けるなど屈辱的な講和を強いられました。また西海岸をギリシャに占領され亡国の危機に直面しました。
そこで国民は決起しムスタファ=ケマルを中心に臨時政府を樹立しました(1922年)。臨時政府はギリシャ軍を追い出し、連合国と講和を結びなおしました。これによりトルコは領土を回復し、不平等条約の改正や財政管理権の奪還を実現しました。またスルタン制、カリフ制を廃し、政教分離、ローマ字や太陽暦を採用してイスラム国家から西欧風国家への転換を図りました。

イランは戦後イギリスの保護国に転落しましたが、激しい民族運動を背景に軍人のレザー=パフレビーがカジャ―ル朝を倒して王位に就き立憲君主制や政教分離を実施し、また不平等条約を改正し独立を回復しました。

(2)アラブとユダヤ

戦時中イギリスはアラブ人の協力を得るため書簡(マクマホン書簡)でアラブの独立国家建設を支持することをアラブの名門ハーシム家のフサインに約束しました。しかしイギリスはフランスとの約束(サイクス=ピコ協定)に従いフサインのヒジャース王国以外を両国で分割し委任統治領にしました。
これに対しアラブ人は激しい民族運動を展開し1932年にイラクが独立し他の国々も自治を獲得しました。

イギリスはユダヤ資本の支持を得るためユダヤ人のパレスチナ復帰運動を支持すると宣言しました(バルフォア宣言)。そのためユダヤ人が移住しはじめ、今日にいたるパレスチナ問題が発生しました。

(3)インド

イギリスは戦時中インドの自治を約束しましたが戦後これを骨抜きにしたうえ激しい言論弾圧を加えました。
インドの民衆は憤慨しましたが国民会議の議長となったガンジーの指導で暴力には訴えず法令への不服従で抗議し、ムスリム連盟もこれに同調しました。

ガンジーの逮捕と内紛で運動は一時衰退しますが、急進派のネルーが議長に就任すると国民会議は完全独立(プールナ=スワラージ)を決議し不服従運動を進めました(1929年)。イギリスは州の自治権拡大で妥協をはかりますが、国民会議派は完全独立を求めて運動を続けていきます。

(4)中国

○五・四運動

袁世凱政権は大戦中、日本の要求(21カ条の要求)を受け入れドイツの持っていた山東省の権益を日本が引き継ぐことを承認しました。
中国は講和会議で21カ条の要求の無効を訴えますが容れられず山東省の権益は日本に引き継がれることが承認されました。
民族意識が高まっていた民衆はこれに反発し学生を中心に大規模なデモ、ストライキ、日本製品の不買運動などを行いました。これを五・四運動といい、中国の民族運動の発端となりました。
デモ
○国民党と共産党

孫文は五・四運動を機に国民党を再結成して広東に新政府を樹立し、またコミンテルンの指導で結成された中国共産党とも協力する方針を決めました(第一次国共合作)。孫文は志半ばで亡くなりますが、蒋介石を中心に軍閥制覇(北伐)を進め、武漢政府を樹立しました(1926年)。
しかし上海占領後、蒋介石は民族資本や地主の要求を容れ共産党を弾圧しました。
蒋介石は南京に国民政府を樹立し武漢政府もこれに合流して北伐を再開し、軍閥の張作霖を追い出し北京を占領して北伐を完了させました(1928年)。
中国は統一されましたが、それは見せかけで実際は軍閥の勢力は温存されました。

一方共産党は江西省瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト臨時政府を樹立し(1931年)、その後国民党に圧迫されて陝西省延安に逃れました。

世界恐慌とファシズム

(1)世界恐慌

アメリカは大戦後空前の好景気となりましたが、過剰投資がたたり1929年にニューヨーク取引所の株価が暴落し大恐慌に陥りました。

そこでルーズベルト大統領は従来の放任主義を改めニューディール政策をかかげて生産調整や公共事業の実施などで積極的に経済に介入しました。また中南米諸国以外の地域に対しては反ダンピングと称して高関税を掛けアメリカ大陸の市場独占をはかりました。豊富な資源と広大な市場に支えられたアメリカは恐慌を乗り切ります。

イギリスとフランスも本国と植民地への輸入品に高関税障壁を設けて外国商品を締め出しました(ブロック経済)。

資本主義諸国が苦しむ中、ソ連は恐慌の影響を受けず計画経済で順調に工業生産を伸ばしました。また1922年に国際的に孤立していたドイツと国交を結びドイツに軍事研究や訓練の場を提供する見返りに技術支援を受けました。これにより技術力が向上し重工業化か進みました。

(2)ファシズム

ファシズムとは一種の独裁主義のことです。独裁を通じて国民の自由を制約して国家全体の利益をはかろうとする政治思想で、イタリアのファシスト党が語源となっています。

そのイタリアは戦勝国でありながら領土要求が満たされずベルサイユ条約への不満が高まっていました。また経済基盤が弱いため大戦によって激しい打撃を受けました。
社会不安が増大する中、ムッソリーニ率いるファシスト党がクーデターで政権を奪い一党独裁体制を樹立しました(1922年)。ファシスト党はフィウメ(現リエカ)併合などで国民の支持を受け、世界恐慌後はエチオピアとアルバニアを併合しました。

そしてファシズムは世界恐慌後のドイツへ拡散しました。
多額の賠償負担を抱えていたドイツはアメリカからの融資に依存していたため世界恐慌によって深刻な打撃を受けました。恐慌前一桁台だった失業率が恐慌後は44%まで跳ね上がり深刻な事態となりました。
このような社会不安を背景にヒトラー率いるナチス党はベルサイユ体制の打破やドイツ民族の復興などをかかげて国民の広範な支持を集めて党勢を伸ばしました。ナチスはクーデターではなく選挙によって合法的に政権を獲得し、一党独裁体制を築きました(1933年)。ナチスは公共投資の拡大などで失業問題を解決し、また公約どおりベルサイユ条約の軍備条項の破棄・再軍備宣言、ベルサイユ条約で定められた非武装地帯(ラインラント)への進駐などを断行しベルサイユ体制の打破に挑みました。

ドイツとイタリアはベルリンーローマ枢軸という協力関係を築き(1936年)、さらに軍事同盟を結びます(1939年)。

(3)日中戦争

○満州事変と日本軍国主義

日本は大戦中好景気でしたが大戦後は長期の不景気に陥り、世界恐慌後は深刻な状態となりました。さらに中国の国民政府と満州軍閥の張学良が満州での日本人の経済活動を妨害する法令を出すなどして日本の満州権益を脅かしました。そのためトラブルが多発し日本人への暴行事件などが起きました(満蒙問題)。
そこで関東軍は満蒙問題の包括的解決と国力増強をはかるため独断で満州全土を占領し満州国を樹立しました(満州事変、1931年)。国民も関東軍を支持したため、日本政府も青年将校による首相暗殺事件(五・一五事件)を機に満州国を承認しました。

しかし世界は承認せず国際連盟が撤退勧告を出すと日本は連盟から脱退し孤立しました。そのため軍縮条約の更新を拒否して軍拡を進め、またドイツに接近し日独防共協定を締結しました。
一部青年将校によるクーデター未遂事件(二・二六事件)後は事実上の軍政状態となり軍国主義が確立し軍拡に拍車がかかりました。

その一方で満州経営と軍拡に伴う投資の拡大でしだいに景気は回復に向かいました。
軍服

○盧溝橋事件

満州事変後、共産党はコミンテルンの指導に従い国民党に内戦停止を呼び掛けました。これに張学良が賛同して蒋介石を監禁したため(西安事件)、蒋介石も共産党の提案に従い統一民族解放戦線を結成しました(第二次国共合作)。

そして1937年7月北京の盧溝橋で日中両軍が衝突し日中戦争が始まりました。日本は不拡大方針を取りますが中国(国民政府)軍が上海の日本租界を包囲、攻撃して戦線を拡大させたため、両国は全面戦争に突入しました。日本は上海、首都の南京を占領しますが、中国軍は重慶に逃れて抗戦を続けたため戦争は長期化しました。

第二次世界大戦

(1)ヨーロッパ戦線

ドイツ(独)は領土拡張に努めオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアを解体・占領しました(1938年)。
そして翌年独はソ連と不可侵条約を結び共謀してポーランドに侵攻しました。堪忍袋の緒が切れたイギリス(英)とフランス(仏)は独に宣戦布告し第二次世界大戦が始まりました。
独は圧倒的強さでパリを占領し、さらにイタリア(伊)が参戦したため仏はあっけなく降伏しました。英仏側を連合国、独伊側を枢軸国といいます。

一方ソ連はこの隙に旧領の回復を狙いバルト3国を併合しフィンランドに侵攻しました。
これを見た独は独ソ不可侵条約を破棄し、伊や東欧諸国とともにソ連へ侵攻して広大な国土を占領し首都モスクワまで迫りました(1941年)。

(2)太平洋戦争

日本の勢力拡大をおそれたアメリカ(米)は中国を支援する一方で日本に経済制裁を課しました。そこで日本は独の提案にのって独伊と三国軍事同盟を結び、またソ連と中立条約を結んで背後の安全を確保しました。さらに資源確保のため仏領インドシナに進駐して米を牽制しました。しかし米はこれらに激怒しついに日本への石油輸出を禁止しました。
追い詰められた日本は戦争を決意し1941年12月にハワイの真珠湾基地を攻撃して、米英オランダに宣戦布告をしました。米と独伊も開戦したため太平洋戦争とヨーロッパの戦争は結びつき本格的な世界大戦となりました。

日本は快進撃を続け半年で東南アジア全域を占領しました。
日本はアジアの民族運動家を引き連れ欧米植民地からの解放を謳ったことでアジアの人々の支持と協力を得ました。これが幸いしたといえます。
そして日本の後押しでビルマとフィリピンが独立しました。しかし日本軍の指導監督を受けていたため、その独立は形式的なものでした。

(3)連合国の反撃

日本はミッドウェイ海戦での敗北とカダルカナル島からの撤退以降劣勢となりました。そして敗戦が濃厚になるとビルマが連合国に寝返り、他の地域でも抗日ゲリラが組織されました。
独はモスクワ攻略に失敗したうえ、ソ連南部のスターリングラード(現ボルゴグラード)の戦いで敗れて以降劣勢となりました。

まず伊が1943年9月に降伏し、新政権は逆に独に宣戦布告しました。
さらに東欧の枢軸国がソ連に占領され降伏しました。これらの国々は共産主義を押し付けられ、戦後に共産主義国家として独立します。

そして独が1945年5月に降伏し、日本も二発の原子爆弾とソ連の参戦で同年8月に降伏して第二次大戦は終了しました。
原爆

東西冷戦と現代の世界

東西冷戦

第二次大戦後、新たな国際平和機関として国際連合が発足しました。
国際連盟と異なり軍事制裁も可能となったため、強力な軍事力を持つアメリカとソ連が中心となりました。

しかし政治体制の異なる両国の対立はしだいに表面化し各陣営の強化をはかります。
アメリカと西欧諸国(西側陣営)が北大西洋条約機構(NATO)を設立して軍事協力を強化すると、ソ連と東欧諸国(東側陣営)はワルシャワ条約機構を設立しました。戦闘を伴わない両国の対立を「冷たい戦争(冷戦)」といいます。
その影響で戦後分割占領されたドイツは東西に分断されました。

アジアでも日本から独立した朝鮮が分断され、ソ連に占領された北部が共産化しました。また、中国共産党が国民党との内戦に勝利し中国が東側陣営に加わり、さらに北ベトナムも共産主義国としてフランスから独立しました。
共産主義の拡大に対しアメリカは日本や南朝鮮(韓国)、南ベトナムなどと同盟を結び各国に軍を駐留させました。
朝鮮とベトナムでは実際に戦争となりました(朝鮮戦争、ベトナム戦争)。

アジア・アフリカの独立

大戦で疲弊した欧州諸国に植民地の抵抗を押さえつける力はなく、大戦後アジア、アフリカで独立が相次ぎました。
これら新しい独立国はアジアーアフリカ会議(バンドン会議)や非同盟諸国会議を開催し反植民地主義や東西どちらの陣営にも属さない非同盟主義を掲げ、数の力を背景に国際社会での存在感を高めました。
アジア

冷戦の終結と現在の世界

アメリカとソ連はし烈な軍拡競争をくり広げますが、ソ連などの共産主義諸国は非効率な生産で経済が停滞したため軍事費の増大でしだいに疲弊し始めました。
そこでソ連のゴルバチョフ書記長はペレストロイカ(改革)を掲げて西側との融和を進めるとともに東欧諸国の自立を容認しました。
その結果、1989年に東欧諸国は一斉に民主化し、翌年には西が東を吸収する形でドイツが統一されました。

そして1989年12月、アメリカとソ連の首脳が地中海のマルタ島で会談し冷戦の終結を宣言しました。

ソ連は市場経済の導入と民主化をはかりますが、保守派がクーデターをおこし、ゴルバチョフを幽閉しました(1991年)。
しかしロシア連邦のエリツィン大統領らモスクワ市民が立ち上がり軍もこれに呼応したためクーデターは失敗しました。
この混乱の責任をとってゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、ソ連は解体されました。

こうして名実ともに東西冷戦は終結しました。

その後はアメリカが唯一の超大国として世界を主導しましたが、昨今はアメリカと中国の覇権争いの様相を呈しています。

多くの人が勘違いしていますが、歴史は昔の出来事を暗記する学問ではありません。昔の出来事から教訓を得て、それを現代・未来に活かすための学問です。

今回の例でいえば、なぜ戦争が起きたのか、どうしたら戦争を防げたのか、現代の状況は開戦前の状況と比べてどうか似ていないか、なぜファシズムが成立したのか、なぜ共産主義は崩壊したのか、などを考えることで教訓が得られます。
そのような歴史の教訓はこれからの人生に役立つことでしょう。このような意識を持てば歴史に興味が湧きモチベーションがあがります。

どの科目でも同様ですが、その科目を得意科目とする最も有効かつ強力な方法はその科目の意義を理解し興味を持つことです。歴史を学ぶことの意義を理解し興味を持てば歴史を得意科目とすることができるでしょう。
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