市民革命と産業革命|30分で学べる世界史まとめ
17~19世紀前半のヨーロッパでおきた市民革命と産業革命について、その背景となった出来事や後世への影響を踏まえてみていきます。
自然科学の発達と近代思想の成立
(1)近代哲学と自然科学の発達
ルネサンスから始まった合理主義の精神はフランシス・ベーコンのイギリス経験論やルネ・デカルトの大陸合理論などの近代哲学を生み合理的な思考方法を確立させました。
イギリス経験論とは実験と観察から真理を導き出す考え方で帰納法とも呼ばれ、大陸合理論とは演繹法の一種で一般的に正しいとされる事実から数学的証明により個別・具体的な結論を導き出す考え方です。
このような合理的思考方法はニュートンの万有引力の法則、微・積分法などの重要な法則の発見につながりました。
自然科学の発展は後の産業革命や新兵器の開発につながり西欧の優位性を決定づけます。
(2)近代政治思想の成立
合理的な思考方法は新たな政治思想を生み出し、王権は神から与えられたとする従来の王権神授説への批判が高まりました。
まず自然法(実定法に優先する永遠普遍の法)を人間の理性に内在する法則ととらえる近代自然法思想がグロチウスやホブッスらによって唱えられ、全て人間は自然状態(政府ができる以前)において自由・平等の権利(自然権)を有すると主張されるようになりました。
そして国家は個人の自然権を守るために契約により成立したとする社会契約論が登場し、ロックは、個人は主権者によって自然権が脅かされたときは主権者をとりかえられるとする革命権思想を唱えました。
また理性を尊重し不合理な伝統や権威を批判する啓蒙思想が18世紀のフランスでおこり、モンテスキューの三権分立論やルソーの主権在民論などの政治思想が登場しました。
これらは当時流行したコーヒーハウスやサロン、さらにこの頃発生した新聞・雑誌などのジャーナリズムを通じて市民に広まりました。
政治意識の高まった市民は革命をおこし絶対王政を打倒します。
イギリス革命
(1)ピューリタン(清教徒)革命
エリザベス1世死後、スコットランド王がジェームス1世として即位しステュアート朝が成立しました(1603年)。
次のチャールズ1世はスコットランドにも国教会を強制しようとしましたが、カルバン派(プレスビテリアン)が反発し反乱をおこしました。王はこれに対処するべく議会を開催しますが、議会が王権を大幅に制限することや国王を糾弾する決議を採択したため議会を抑圧しようとしました。そのため国王派と議会派の内戦が始まり清教徒革命が勃発しました(1642年)。
当初王党派が優勢でしたが、この頃台頭した富裕な商工業者や独立自営農民などの市民階級(ブルジョアジー)が国王による一部大商人への特権付与やピューリタン(イングランドのカルバン派教徒)への弾圧に反発して議会派を支持したことで議会派が勝利しました。国王は処刑され、イギリスは共和制となりました(1649年)。
共和制では、市民階級の支持を受けたクロムウェルが軍事独裁政治をしきましたが、厳格な禁欲主義と軍事独裁政治に国民の不満が増大したため、クロムウェルの死後に王政が復活しました。
(2)名誉革命と立憲政治の確立
しかし国王ジェームズ2世がカトリック教を復活させようとしたため議会は新教徒の王女メアリとその夫でオランダの総督ウィレムを王として招きました。ジェームズ2世はフランスに亡命し無血の名誉革命が成功しました(1688年)。
翌年、ウィリアム3世とメアリ2世は共同統治者として即位し「権利章典」を発布しました。「権利章典」には議会の承認を得ない法律の執行・停止や課税の禁止、議会内での言論の自由の保障などが規定され、これにより議会政治が確立しました。
王は当初二つの有力政党トーリー党とホイッグ党から半数ずつ大臣を任命しましたが議会でホイッグ党が多数を占めるとホイッグ党員だけで組閣しました。これ以後多数党が内閣を組織する政党政治が始まります。
1707年にイングランドとスコットランドが合併し大ブリテン連合王国となりました。
ステュアート朝断絶後ドイツのハノーバー選帝侯ゲオルグがジョージ1世として即位しましたが、英語を話せない王は政治に関心を持たず政務を専ら大臣に委ねたため王は「君臨すれども統治せず」の慣行が成立しました。
さらにときのウォルポール首相は下院で信任を失うと王の信任を得ていたにもかかわらず辞職しました。これ以後、内閣は王ではなく議会に責任を負うことになりました(責任内閣制)。
ただ当時の議会は貴族や郷紳(地主化した旧騎士)などで占められ革命に貢献した市民階級には選挙権すら与えられなかったため、イギリス革命は本格的な市民革命とはいえないものでした。
市民階級が選挙権を得るのは産業革命を経た19世紀の選挙法の改正以後です。
産業革命
イギリスでは、従来裕福な独立自営農民や商人が作業場に賃金労働者を集め分業による共同作業で毛織物などを生産していました。これを工場制手工業(マニュファクチュア)といいます。
しかし18世紀半ば頃以降手作業から機械による生産に変わり工場制機械工業という新たな生産様式が確立され、産業革命といわれる経済社会上の変化が起きました。
(1)イギリス産業革命の要因
○イギリスはフランスとの植民地争奪戦に勝利し世界商業の主導権を持ったことで、国内に豊富な資本を蓄積していました。
○革命により議会政治が確立したため、スペインやフランスのような浪費がなく蓄積した資本が企業への融資や河川・港などのインフラ整備に有効利用されました。また不合理な重税がなくなりました。
○穀物需要の増加で地方の地主は穀物増産のために土地を囲い込んだため、多くの農民が都市へ流れ賃金労働者となりました。
○1694年にイングランド銀行が設立され金融市場が発達していました。
○経験論の影響で実験と観察が重視され科学技術が発展する素養ができていました。
(2)産業革命の展開と影響
産業革命は需要の増大で国産化がすすめられた綿織物から始まり、織機や紡績機が発明されました。その動力源としてワットにより蒸気機関が実用化され(動力革命)、素材として製鉄業、エネルギー源として石炭業が発展しました。
また原料や製品を運ぶための交通手段としてスティーブンソンが蒸気機関車を、アメリカ人のフルトンが蒸気船を実用化しました(交通革命)。
産業革命により安価で良質な製品が大量生産されたことでモノが豊かになり、これ以後急激に人口が増加します。
工場主は産業資本家として社会的地位が向上し、資本家が経済社会を主導する資本主義経済が確立しました。
その一方で労働者は低賃金・長時間労働を強いられ深刻な貧困問題が生じました。そのため待遇改善や福祉政策を求める労働運動が生じ、また生産を社会的に管理する新たな経済思想、社会主義が主張されるようになりました。
また産業革命が他の国々へ波及すると、市場と原料を求めて植民地争奪戦がさらに激しくなります。
アメリカ独立革命
イギリスは本国商人を守るため植民地の商工業を規制し、またフランスとの植民地争奪戦に勝利した後は課税を強化したため、植民地人の不満が高まりました。
そんな中、本国が植民地での茶の販売独占権を東インド会社に付与したことに反発した植民地人がボストン港に停泊中の東インド会社の船を襲撃し茶を海に投げ捨てる暴動をおこしました。本国が懲罰のためボストン港を封鎖したため、ボストン郊外で本国軍と植民地民兵との軍事衝突が起き戦闘が始まりました。
植民地はロックの自然権や革命権の思想を盛り込んだ「独立宣言」を発表し、「アメリカ合衆国」と名乗りました。
アメリカは独立軍の奮戦と諸外国の支援で勝利し、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を承認しました。
独立後のアメリカでは長子相続制などのヨーロッパ由来の封建的遺制が廃止され、また世襲貴族や階級のない市民による市民の政治が実現しました。アメリカの独立は世界初の本格的な市民革命といえます。
また自由と平等、三権分立を柱とする成文憲法が制定され(1787年)、フランス革命や中南米諸国の独立に影響を与えました。
フランス革命
18世紀のフランスは浪費と戦費で財政難に陥っていました。しかし税を負担するのは平民(第3身分)だけで多くの土地を所有する僧侶(第1身分)と貴族(第2身分)には免税や年金の特権がありました。
そこで政府は特権身分への課税を試み三部会は開催しました。しかし議決方法をめぐり第1,2身分と第3身分が対立すると、第3身分は国民議会と称し憲法制定に着手しました。国王ルイ16世は貴族に押され軍で議会を圧迫するとパリの民衆はバスティーユ牢獄を襲撃し、革命が始まりました(1789年)。
国民議会は主権在民などの啓蒙思想を取り入れた「人権宣言」を決議し、農奴制などの封建的特権の廃止、教会財産の没収、ギルドの廃止などを実施しました。
また立憲王政や制限選挙を定めた憲法(1791憲法)を制定しました。
当初は立憲王政派(フイヤン派)が主導していましたが、国王逃亡未遂事件や諸外国の干渉で王は信頼を失い、商工業者などの中産階級を代表する共和派(ジロンド派)、次いで零細業者や農民を代表する急進共和派(ジャコバン派)が実権を握りました。
そしてジャコバン派の意向により王政廃止とルイ16世の処刑が実施されました(第1共和政)。
ジャコバン派はジロンド派を追放して独裁体制をしき、封建的特権の無償廃止を実施して小作人に土地を無償で分配しました。これがフランス革命最大の成果です。
また徴兵制を施行して国民軍の組織を整備し、諸外国の干渉をほぼ撃退しました。
しかし内紛と苛酷な粛清によってジャコバン派は国民の支持を失い指導者ロベスピエールが処刑されると実権を失い(テルミドールの反動)、その後5人の総裁を置く総裁政府が発足しました(1795年)。しかし合議制のため意思決定が遅く、またクーデター騒ぎが続発して政情不安が続きました。
ナポレオン戦争とウィーン体制
(1)ナポレオン戦争
イタリア方面軍司令官のナポレオンはクーデターで無力な総裁政府を倒し統領政治を開始しました(1799年)。
ナポレオンはフランス銀行の設立、ナポレオン法典の制定などの内政の充実と数々の戦功により国民の広範な支持を集め、人民投票によりナポレオン1世として皇帝に即位し第1帝政を開始しました(1804年)。
ナポレオンを警戒する諸国はイギリスを中心に対仏大同盟を結成しますが、ナポレオンは大陸で勝利を重ね神聖ローマ帝国を解体しライン連邦を組織して配下に置きました(1806年)。
さらにプロイセンを破りチルジット条約で領土の割譲と多額の賠償金、軍備制限をプロイセンに課しました(1807年)。
しかしイギリスには勝てなかったため大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発し大陸諸国にイギリスとの通商を禁じてイギリスを経済的に追い込もうとしました。しかし大陸諸国はかえって苦しみ反感を抱きました。
また占領した国々に一族を王侯として送り込んだため、ナポレオンはしだいに革命の英雄から侵略者と見なされるようになり諸国民にナショナリズムが芽生えました。
スペインで反乱がおき、さらに大陸封鎖令を公然と無視するロシアへの遠征が失敗すると諸国民は立ち上がりパリを占領しました。
ナポレオンは島流しにされ、ルイ18世が王位に就きました(1814年)。
ナポレオンは敗北しましたが、やがて彼の広めた自由・平等という革命の理念はヨーロッパに自由主義運動をもたらし、ナポレオンへの抵抗は民族の統一や独立を求める国民主義運動を引き起こします。
(2)ウィーン体制
○ウィーン体制の成立
ナポレオン戦争後の混乱を収拾するため、オーストリア外相メッテルニヒ司会の下でウィーン会議が開催され、フランス革命前に戻すことを原則とすることが確認されました(正統主義)。そしてウィーン議定書が採択され勢力均衡にもとづき領土分割が行われました。
またウィーン体制を守るため主要国が協力することが約され(四国同盟)、メッテルニヒ主導で各地の自由主義運動・国民主義運動が鎮圧されました。
○ウィーン体制の動揺
しかし主要国の足並みは必ずしもそろわず、中南米諸国やギリシャが独立し早くも領土変更が生じました。
そしてフランスで七月革命がおきて、ブルボン朝が倒れルイ・フィリップの立憲王政(七月王政)が成立しました(1830年)。
その影響で、ウィーン議定書によりオランダ領となった南ネーデルラントが独立しベルギーが建国されました。
またイギリスでは選挙法が改正され資本家にも選挙権が与えられました(1832年)。また労働者も男子普通選挙などを求める人民憲章を議会に請願したり署名活動やストライキを行ったりしました(チャーチスト運動)。
○ウィーン体制の崩壊
この頃、資本主義に疑問を持ち生産を社会的に管理することを主張する社会主義思想がイギリスやフランスで広まり、ドイツのマルクスとエンゲレスは『共産党宣言』を発表し(1848年)、社会主義思想を理論的にまとめあげました。社会主義は多くの労働者に受け入れられ大きな影響を及ぼします。
その影響は早くもフランスであらわれ、一般の商工業者を中心とする共和派と労働者の支持を受けた社会主義派が協力してブルジョワ市民層に支えられた七月王政を打倒し第2共和政を成立させました(二月革命、1848年)。そして共和派と社会主義派の連立で臨時政府が樹立され男子普通選挙制が実現しました。
しかしこの選挙で社会主義派は惨敗しました。フランス革命で小土地所有者となった農民に嫌われたからです。当時フランスは小土地所有の農民が国民の大多数を占めていたため普通選挙制により大きな影響力を持ちました。そしてこれら農民の支持を受けたナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオンが大統領に当選しました。
二月革命の影響でウィーンでも暴動が起きウィーン体制を主導していたメッテルニヒがイギリスに亡命しました(三月革命)。
これによりウィーン体制は崩壊し、自由主義・国民主義が進展して国民国家が成立していきます。
市民革命と産業革命は近代社会を成立させた重要な出来事なので、知識が断片的にならないよう出来事の概要だけでなく出来事の背景や後世への影響もおさえて理解しましょう。