絶対主義 | 30分で学べる世界史まとめ
16~18世紀のヨーロッパで成立した絶対主義と主要な国々の栄枯盛衰、およびアジアとアメリカで繰り広げられた植民地争奪戦についてみていきます。
絶対主義と主権国家体制
(1)絶対主義が成立した背景
16~18世紀のヨーロッパの各国で絶対主義といわれる国王専制体制が成立しました。
14世紀頃から貴族は没落し始めました。そのような没落貴族は王権にすがることで特権を保持しようと考え、国王はそのような貴族を、王権を支える官僚または国王直轄軍(常備軍)の傭兵として組み入れました。
また市民とくに大商人は強力な王権による国内市場の統一と外国商人との競争に打ち勝つための保護・援助を国王に期待して多額の献金をしたり官僚として仕えたりしました。
こうした思惑の異なる新旧勢力の上に絶対主義が成立し都市、ギルド(同業者組合)、教会、農村などの諸団体を支配下に置きました。
(2)絶対主義の意義
絶対主義は官僚組織と常備軍を支えるための財源確保のため富=貿易差額(輸出額から輸入額を引いた額)とする重商主義にもとづき産業の保護・育成に努めました。その利益の大部分は王権と結びついた一部の特権的大商人のものとなりましたが、毛織物の生産業者などの一般商工業者や原料の羊毛を生産する独立自営農民なども少しずつ力を蓄えブルジョワジー(市民階級)を形成しました。
やがて市民階級は特権大商人とそれと与する王権を打破するため市民革命をおこし、近代市民社会の担い手となります。
また絶対主義国家では中央集権的官僚システムや統一的な軍隊・警察組織、全国的な徴税システムが整備されて現在の中央集権的国家システムの原型ができました。さらに従来、封鎖的・孤立的であった民衆の間に「国民」としての連帯意識が芽生えました。
さらに主権という概念も生まれました。フランスのジャン・ボダンは主権を「国家の永続的にして最高の権力」と捉え絶対主義を正当と説きました。国家に主権があるという考えは現在でも生きており、絶対主義国家では国王が主権を持っていましたが市民革命の後は国民が主権を持つ国民国家が誕生します。
絶対主義は中世封建国家から近代国民国家への過渡的な形態であり、貴族や大商人などの特権的な封建勢力に支えられていた一方で、上記のように近代国民国家の基礎を作りました。
(3)主権国家体制
宗教改革でプロテスタントが教皇の権威から離脱し、一方で絶対主義が成立すると、ヨーロッパの秩序は主権国家によって形成されるようになりました。これを主権国家体制といいます。
主権は「最高の権力」であるからそれ以上の権力は存在しないはずであり、そこから主権は誰からも支配・干渉されない「独立性」という意味(対外的主権)が生じます。主権国家体制では、主権国家は最高独立の存在であるから中世のローマ教皇のような超国家的な権威・権力が存在してはならず、またどの主権国家もみな対等ということになります。
上位の権威・権力を持たない対等な「最高独立の存在」である国家が複数存在する主権国家体制は無政府状態(アナーキー)を前提としており元来無秩序です。
そこで主権国家は主権の相互承認や内政不干渉を約したり、また外交官を大使・公使として派遣・交換しあったり、紛争がおきたときは話し合いで決した条約により解決したりなどの方法で秩序の維持を図りました。
主権国家体制は現在でも国際社会の基本的な枠組みとして機能しています。
主な絶対主義諸国
(1)スペインとオランダの独立
ネーデルラント(現在のオランダとベルギー)はフランスの貴族ブルゴーニュ公の領地でしたが、婚姻と相続により皇帝ハプスブルク家の領地となりました(1477年)。
ネーデルラントの領主カールは相続によりカルロス1世としてスペイン王に即位し(1516年)、祖父の皇帝が亡くなるとカール5世として皇帝に即位して(1519年)、ヨーロッパとアメリカの広大な領地を一手に収めました。
カルロス1世は引退後スペインとネーデルラントを息子のフェリペ2世に相続させ、皇位は弟に相続させました(1556年)。
フェリペ2世のときに最盛期となりアメリカ大陸から輸入した大量の金銀とネーデルラントの毛織物工業などで繁栄し16世紀後半には世界一の強国となりました。
しかしそれら莫大な利益はぜいたくな宮廷生活や教会費用などに浪費され、またカトリックの強要によりプロテスタントの商工業者が亡命したりネーデルラントの北部7州(オランダ)が独立したりしたため(1581年)、17世紀に入ると衰退しました。
一方オランダは勤勉さと優秀な技術で産業が発展し、ポルトガルを駆逐して東方貿易を独占して首都アムステルダムは世界の金融センターとして繁栄し、17世紀前半には世界の覇権を握りました。
しかし州の権限が強いためまとまりに欠き、さらに17世紀の後半になると胡椒価格の下落やイギリスとの抗争、フランスの侵略によって衰退しました。
(2)イギリス
イギリスの絶対主義はテューダ―朝のエリザベス1世のときが最盛期でした。女王は毛織物工業などの産業の保護育成に努め、またオランダの独立を支援したり海賊行為でスペイン船を攻撃したりしてスペインの覇権に挑みました。そしてスペインの無敵艦隊を撃破し(1588年)、また東インド会社を設立して(1600年)、海洋進出の足場を築きました。
(3)フランス
17世紀後半ユグノー戦争という宗教紛争が起きましたが、ブルボン朝のアンリ4世がナントの勅令を発して(1498年)、信仰の自由を認めたことによって収束しました。
ルイ13世の宰相リシュリューは王権強化のため貴族の勢力削減に努め、またルイ14世の宰相マザランは貴族の反乱(ブロンドの乱)を鎮圧し、絶対主義を確立させました。
ルイ14世の親政が開始されるとフランスの絶対主義は最盛期となります。
財務総監コルベールにより王立工場の設立、保護関税政策、東インド会社の再興(1664年)、北米植民地の建設などの産業保護育成政策を行い、財政強化を図りました。
この時代はフランスの黄金期で文化、外交でヨーロッパをリードしました。
そして充実した国力を背景に領土拡張を図ります。またスペイン王位の相続を主張してスペイン継承戦争(1701~14年)をおこし王の孫をスペイン王位に就けました。
しかし1685年にナントの勅令を廃止したことで商工業を支えたユグノー(カルバン派)が亡命し、また度重なる侵略戦争とぜいたくな宮廷生活で財政が窮乏したため衰退しました。
(4)ドイツ
ボヘミアの新教徒が皇帝ハプスブルク家の弾圧に対し反乱を起こしたことから宗教紛争が再燃し大規模な内乱(三十年戦争)が生じました(1618~48年)。さらに北欧諸国やフランスなどが新教側を、スペインが旧教側を支援したことから国際紛争に発展し、凄惨な殺戮が繰り広げられました。
この紛争解決のためにヨーロッパ初といわれる国際会議が開かれウェストファリア条約が締結されました。これ以後、大規模な国際紛争が起こると主権国家の代表が一ヵ所に集まり多国間条約を締結して紛争を解決していきます。
そのためウェストファリア条約によって主権国家体制が確立したと評価されています。
なお、この条約により領邦国家の主権が認められ神聖ローマ帝国は実質的に解体されました。以後、皇帝ハプスブルク家は自領オーストリアの経営に専念します。
またオランダとスイスの独立が認められました。
○プロイセン
プロイセンは、12世紀東方植民で成立したブランデンブルク辺境伯領とドイツ騎士団領が合併してできた領邦国家です。スペイン継承戦争で皇帝側を支援した功績で公国から王国に昇格し(1701年)、官僚制の整備、農奴の徴兵、産業の保護育成など行い18世紀にはヨーロッパの強国となりました。
フリードリヒ2世は領土拡張を図り工業地帯のあるハプスブルク家領ボヘミアのシュレジェン地方に侵入しマリア・テレジアの皇位継承を承認する代わりに同地を取得しました(オーストリア継承戦争)。
その後マリア・テレジアはそれまで敵対していたフランスとも手を組みシュレジェンの奪還を図りますが、フリードリヒ2世は苦戦の末これを破りました(七年戦争)。
○オーストリア
17世紀末オスマン・トルコの侵入を撃退してハンガリーの大部分を奪還し、スペイン継承戦争で南ネーデルラントを取り戻しました。
七年戦争後はマリア・テレジアと息子ヨーゼフ2世の共同統治で行政・軍事の立て直しを図り中央集権化に努めました。
(5)ロシア
ロシアは、9世紀にノルマン人のルス族が東スラブ人を征服して建てたキエフ公国を起源とし、そこから分立したモスクワ大公国が発展して成立しました。13世紀にモンゴルの属国となりましたが、15世紀イワン3世のときに独立し他の東スラブ(ルーシ)系諸国を併合しました。
16世紀イワン4世は正式にツァーリ(皇帝)の称号を使用し大貴族を弾圧して専制政治を強化し、またキプチャク・ハン国から分立したカザン・ハン国などの国々を併合し、さらにシベリアに進出しました。
イワン4世の死後ルーリック朝が断絶し内戦がおきますが、1613年にロマノフ朝が成立し政治が安定しました。
5代目のピョートル1世はロシアの西欧化を進め、官僚制の整備、農奴の徴兵、国営工場の設立などを行いロシアの絶対主義を確立しました。
またスウェーデンからバルト海の制海権を奪い(北方戦争)、首都サンクト・ペテルスブルクを建設しました。
18世紀エカテリーナ2世はドイツかぶれの夫を排除し絶対主義の最盛期を築きました。オスマン・トルコを破ってクリミア半島を奪って黒海に進出し、プロイセンとオーストリアを誘ってポーランドを分割して領土を広げました。
ヨーロッパの海外進出
(1)アジア
ポルトガルの衰退後オランダがアジア交易を主導しました。オランダは東インド会社を設立し(1602年)、ジャワ島のバダビア(現ジャカルタ)を拠点にモルッカ諸島のポルトガルやイギリスの勢力を追い出し香辛料交易を独占しました。また、ポルトガルからマラッカやセイロン島などの重要拠点を奪い、アフリカ喜望峰にケープ植民地を開きました。
イギリスもモルッカ諸島に進出しましたがオランダとの競争に敗れてからはインド経営に専念しムンバイやコルカタに商館を設置しました。
またフランスは17世紀後半からポンディシェリなどに商館を設けてインドに進出しました。
この頃胡椒価格が暴落し、胡椒にかわってインド産の綿織物の需要が高まったためイギリスとフランスはインドをめぐって争います。当初フランスが優勢でしたが、東インド会社の書記クライブの活躍によりプラッシーの戦い(1757年)でフランスとベンガル王侯の軍を破りインドにおけるイギリスの優位が確立しました。
(2)アメリカ大陸
○オランダとイギリス
オランダは17世紀初頭イギリス人ハドソンが探検した北米東海岸のハドソン川周辺にニューネーデルラントを建設し、西インド会社を設立して(1621年)、植民地経営を開始しました。その拠点としてニューアムステルダム(現ニューヨーク)を建設しました。
イギリスでは17世紀初頭、民間のヴァージニア会社によって北米に最初の植民地ヴァージニアが建設され(1607年)、また北西部のプリマス(現マサチューセッツ州)に最初の入植団が上陸して、1732年のジョージア州の建設までに13州の植民地が建設されました。入植者の多くは小土地所有者として自らの労働で開拓し、自治的社会を形成しました。
またスペインからジャマイカ島を奪い(1655年)、そこで製糖業などに着手しました。この頃ヨーロッパではコーヒーや茶を飲む風習が広まり砂糖の需要が増加していました。それを効率よく経営するため、まず武器などの工業品を船に積んで本国からアフリカに向かい、それらと引き換えに黒人奴隷を購入した後アメリカへ向かい、黒人奴隷と引き換えに砂糖を購入して本国へ戻りました。こうした三角貿易で空荷をなくし効率よく利益を蓄積しました。砂糖のほかコーヒーやタバコ、綿花なども運ばれ、こうした三角貿易で蓄積された資本が産業革命を推進したともいわれます。
イギリスはオランダとの利害対立が激しくなると航海条令を発して本国または原産国以外の船舶からの輸入を禁止して中継貿易主体のオランダに打撃を与えようとしました。そのため、たびたびオランダと戦争をしました(英蘭戦争)。イギリスは優位に戦いを進めニューネーデルラントを取得しニューアムステルダムをニューヨークと改称しました(かわりに南米のスリナムを譲渡)。
しかし互いに決定的な勝利を得られずフランスの脅威が強まると和睦しました。
○イギリスとフランス
フランスはセントローレンス川の河口にケベック市を建設し(1608年)、カナダやノバスコシアに植民して毛皮、木材、水産物などの交易を行いました。またミシシッピ川流域にルイジアナ植民地を建設し(1682年)、またスペインからエスパニョーラ島の西半分(現ハイチ)を獲得しました(1697年)。
フランスの進出が強まると、イギリスはヨーロッパでの戦争でフランスに敵対する側に味方してフランスの植民地を獲得していきました。
スペイン継承戦争ではオーストリアに味方しユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアやハドソン湾沿岸などを獲得し(アン女王戦争)、七年戦争ではプロイセン側につきパリ条約(1763年)でミシシッピ川以東の地とカナダを獲得しました(フレンチ・インディアン戦争)。
これにより植民地争奪戦におけるイギリスの勝利が確定しました。
前にも述べたとおり、近世以降は前後の出来事を因果でつなぎ合わせて時間の流れつまりストーリーを理解することが重要です。
今回の絶対主義でいえば、前の出来事は中世末期以来の「貴族・教皇の衰退と王権強化」と「商業の発展」であり、つなげるのは「貴族の官僚化と特権大商人の支持・官僚化」です。
後ろの出来事は「市民革命」と「近代国民国家の成立」であり、つなげるのは「重商主義政策下での市民階級の成長」と「中央集権的国家システムの構築と国民意識の芽生え」、「主権概念の成立」です。
このようなことを意識すればストーリーを理解しやすくなります。