中国|30分で学べる世界史まとめ
中国の歴史について黄河文明から清朝の前半までみていきます。中国は日本に最も強い影響を与えた国の一つなので試験問題では頻出です。各王朝・時代ごとにその特色、後世への影響、衰退・滅亡にいたった要因などを把握して理解を深めましょう。
黄河文明~都市国家
(1)黄河文明
BC7~5000年頃から黄河中下流域で雑穀栽培などの農耕が始まり、人々は村落を作り磨製石器や彩陶、黒陶と呼ばれる土器を用いて生活をしていました。
仰韶遺跡、竜山遺跡などが有名です。
やがて、それらの村落は発展・統合し邑(ゆう)という都市国家に成長しました。
(2)殷(商)
BC16世紀頃、これら邑は殷(商)邑を中心に連合体国家を形成しました。これが現在確認し得る最初の王朝です。
殷は亀の甲羅や獣骨を用いた占いによって政治を行いました。占いの結果を書き記すために用いられたものが甲骨文字です。甲骨文字はやがて漢字に発展します。
また殷は青銅器を独占し祭器や武器として用いて権威の象徴としていました。
BC12世紀、殷は渭水流域でおこった周に滅ぼされました。一説によれば、生贄の供出を強要したことで諸侯の恨みを買ったために滅亡したといわれています。
(3)周
周王は一族や功臣を世襲の諸侯に任じて邑の支配権を分け与え、諸侯は周王に貢納や軍役を負担しました。この仕組みを封建制といいます。封建制というと西欧の封建制もありますが、西欧は契約による主従関係であるのに対し、周王と諸侯は血縁関係をもとにした主従関係でした。
周は殷代の占いによる政治を廃し、血縁関係をもとにした宗法という道徳規範(礼)による政治を行いました。
しかし道徳(礼)による政治はやがて限界をきたし、諸侯は欲望むき出しのままに自立していきます。
そしてBC771年西方から犬戎という異民族に侵入され、都を鎬京(現在の西安)から洛邑(現在の洛陽)に移しました。これ以後、周王の権力は大きく衰退して各諸侯が割拠する状態となりました。
(4)春秋・戦国時代
「春秋時代」は魯国の年代記『春秋』に、「戦国時代」は漢代に書かれた『戦国策』に由来します。
春秋時代までは周王の権威が生きていましたが、BC403年に有力諸侯の晋が家臣たちによって三分され諸侯として公認されると戦国時代となり、周王の権威は完全に失墜し諸候は王を名乗りました。
諸侯は封建制を廃して中央集権化を進めました。
また鉄器・牛耕の普及により農業生産力が増大したことで邑を単位とした氏族共同体の崩壊し家族による土地の私有が進んだうえ、貨幣経済が発達したため、豪農・豪商が出現しました。
この時代、諸侯の積極的な人材登用により諸子百家と呼ばれる多くの思想家が生まれ中国古典文化の基礎が築かれました。道徳=礼による政治を説く儒家(孔子や孟子など)、無為自然を説く道家(老子や荘子など)、法や刑罰による秩序維持を説く法家(商鞅や韓非など)が有名です。
周は秦に滅ぼされました(BC256年)。
統一国家と豪族・貴族の進出
(1)秦
最も西にある秦が法家思想を採用して強国となりBC221年に中国を統一しました。中国初の統一的領土国家です。
統一を成し遂げた秦王政は始皇帝を名乗り、以後歴代の君主は皇帝号を使用します。
始皇帝は郡県制を採用して中央集権体制を確立するとともに度量衡、貨幣(半両銭)、文字(篆書)まで統一し、本格的な統一国家を作り上げました。
しかし始皇帝の死後、圧政や苛酷な刑罰に不満を持つ農民が陳勝・呉広の乱を機に反乱を起こし、また秦に滅ぼされた国々が復活した結果、秦は滅亡しました(BC206年)。
(2)漢
秦滅亡後、漢と楚が争いましたが漢の高祖(劉邦)が勝利し中国を統一しました(BC202年)。
漢は7代武帝の時代に最盛期となり積極的な対外遠征を行いました。北方の遊牧民、匈奴を破って西域(中央アジア)に侵出しタリム盆地(現在の新疆ウイグル自治区)にあったオアシス都市国家を服属させました。また朝鮮半島やベトナム北部を征服し郡を設置しました。
しかし相次ぐ外征による負担増で多くの農民が没落しました。その没落農民の土地を買い漁った豪農が大土地所有者となり豪族として台頭してきました。
そのような中、漢は外戚(皇后の一族)王莽に滅ぼされました(8年)。王莽は新を建国し豪族の勢力を押さえようとしましたが、豪族たちは劉秀(光武帝)を担ぎ上げて新を滅ぼし、漢を再興しました(25年)。
これにより地方豪族は力を増し、郷挙里選という官吏登用制度でしだいに中央政界に進出して高級官職を独占していきました。しかし宦官や外戚はこれを警戒し激しい権力闘争が繰り広げられます。中央政界の混乱は地方の荒廃を招き黄巾の乱のような大規模な農民反乱をひき起こしました。
これ以後、豪族たちによって国は分裂し、漢も滅亡しました(220年)。
〇中国古典文化の完成
武帝が官学として以降、君臣間の道徳を唱える儒教が発展し、五つの基本経典(五経)が整備されました。儒教は朝鮮や日本にも影響を与え東アジア文化の基本を形作りました。
司馬遷の『史記』、班固の『漢書』などの歴史書が編纂され、後世の歴史書の模範となりました。
また蔡倫によって紙が発明され東アジアのほか、8世紀以降中東さらにヨーロッパにも広まりました。
(3)魏・晋・南北朝
漢滅亡後、魏、呉、蜀の三国に分裂しましたが、魏に替わった晋によって統一されました(280年)。
しかし晋は一族の内紛で衰え、中国内に移住していた匈奴系の人々によって滅ぼされました(316年)。晋の一族は建康(現在の南京)へ逃れ晋を再興し、主に中国の南半分を支配しました(東晋)。
北部は、匈奴のほかモンゴル系の鮮卑、羯(けつ)、チベット系の羌(ぎょう)、氐及び漢族の建てた国が乱立したのち、鮮卑族の北魏によって統一されました(439年)。北魏が東西に分裂した後は、北周が統一しました。北魏以降の王朝を北朝といいます。
南部では東晋の滅亡後(420年)、宋、斉、梁、陳の順で王朝が成立しました。これらを南朝といい、南朝と北朝が並立した時代を南北朝時代といいます。
この混乱により没落農民が増える一方、豪族の力は増し高級官職を独占さらに世襲化して貴族となりました。
とくに南朝では貴族の力が強く皇帝権は弱体であったので不安定な政治が続き社会不安が増大しました。
この激しい社会不安の中で儒教は衰退し、道教と仏教が発展しました。
(4)隋
北朝から出た隋の文帝(楊堅)が南朝を滅ぼして中国を統一しました(589年)。
文帝は律(刑罰規定)と令(その他の規定)を整備して従来の皇帝や丞相(宰相)の個人的才覚によらない安定した統治体制の構築を図りました。また北朝の諸制度を継承し、農民に土地(口分田)を支給したうえで(均田制)、租(穀物)・調(絹・布)・庸(労役)の税と軍役(府兵制)課しました。さらに試験による官吏登用制度(科挙)を設け貴族勢力の抑制を図りました。
しかし文帝は子の煬帝に殺害されました。
煬帝は文帝の事業を継承して華北と長江を結ぶ大運河を建設しました。これは後の中国の発展に大きく貢献します。
しかし朝鮮北部から満州南部に勢力を拡大した高句麗に対する遠征に失敗すると、各地で反乱がおき、隋はあっけなく滅びました (618年)。
(5)唐
〇唐の繁栄
李淵(太祖)は唐を建国し隋にかわって中国を統一し、その子李世民(太宗)は「貞観の治」と呼ばれる繁栄を築きました。唐は基本的に隋の制度を継承し律令による政治を行いました。
充実した国力を背景に北方のテュルク系遊牧国家の突厥、高句麗を滅ぼし、チベット系の吐蕃を破って西域に侵出して中国史上最大の領土を築きました。
唐の対外発展により多くの外国商人が訪れ、首都長安は国際都市として繁栄しました。とくに7代玄宗の時代は「開元の治」と呼ぼれる安定した政治の下で国際色豊かな文化が栄えました。
〇唐の滅亡と支配層の交替
北方からテュルク系のウイグル族が唐を脅かしたため、辺境を守護する節度使が設置されました。軍の機動力強化のため節度使には軍の指揮権だけでなく辺境の行政権、財政権まで与えられましたが、これによって節度使は強力な地方政権に成長しました。
そして節度使の安禄山が中央での政争に敗れたことから反乱を起こし(755年)、皇帝を名乗ったうえ長安を占領しました。安禄山の死後は史思明が引き継ぎました。この反乱を安史の乱といいます。史思明が息子に殺害されて以降反乱軍の勢力は弱まり、唐はウイグルの協力を得て反乱を鎮圧しました(763年)。
乱後、唐は税制の改正、塩・茶・酒の専売制強化などで勢力回復を試みました。しかし専売制の強化に反発した塩の闇商人、黄巣が反乱を起こし(875年)、長安を占領して皇帝を名乗りました(黄巣の乱)。反乱は、黄巣の部下、朱温が裏切ったことで鎮圧されましたが、乱はほぼ全国に及び国土は荒廃しました。
そして唐は節度使となった朱温(朱全忠)によって滅亡しました(907年)。
その後、中国は十数個の国に分裂し内戦が続きました(五代十国時代)。
この混乱で名門貴族は没落し、貴族の土地(荘園)は節度使やそれと結びついた新興地主に奪われました。
以後、貴族にかわって新興地主が中国の社会を主導していくことになります。
皇帝専制体制の確立
(1)宋
趙匡胤(太祖)が宋を建国し(960年)、その弟趙匡義(太宗)が中国を統一しました。
宋は国家分裂の原因となった節度使の権限を縮小し、逆に皇帝直轄軍を強化しました。また文治主義をかかげて文官を優遇し、節度使にも文官を任用しました。さらに科挙制を強化して皇帝自ら実施する試験(殿試)を加え官僚の人事権を掌握しました。
これらにより皇帝の専制支配体制が築かれ、国内は安定し経済・文化が栄えました。
しかし文治主義によって軍事力が低下したため周辺民族の侵略に悩まされることになりました。北からモンゴル系契丹族の遼、西からはチベット系タングート族の西夏が宋に侵攻し、やむなく宋は遼や西夏に絹や銀を毎年贈ることを約束させられました。
そして12世紀になると北東からツングース系女真族の金が侵攻し、宋を滅ぼし中国の北半分を占領しました(1127年)。皇帝の一族は臨安(現在の杭州)に逃れ宋を再建しましたが(これを南宋といいます)、金の臣下として絹や銀を毎年貢納することを約束させられました。
(2)元
モンゴル高原ではモンゴル部族のテムジンが諸部族を統一し、部族長会議(クリルタイ)からチンギス・ハンの称号を贈られました(1206年)。チンギス・ハンとその後継者は東西交易路を中心に征服に乗り出し、西夏や金を滅ぼしました。さらに5代目の大ハーン(皇帝)
のフビライ・ハンは国号を元と改め、南宋を滅ぼしました(1279年)。
元はモンゴル第一主義をとり、漢族を冷遇しました。科挙を廃止しウイグル人などの西域の人々を官僚に抜擢し、またモンゴル語を公用語とし、公文書にはチベット文字から作られたパスパ文字、あるいはウイグル文字を使用することが義務付けられました。文化面でも儒教などの中国の伝統文化を冷遇し、チベット仏教を国教にしたりイランの細密画などイスラムの文化を取り入れたりしました。
フビライ・ハンの死後、相続争いが起こり、元の支配力が低下しました。14世紀になると各地で農民反乱がおこり、白蓮教徒(仏教の一派)のおこした紅巾の乱を機に旧南宋地域が元の支配から離れ、元はしだいに北へ追いやられていきました。
(3)明
紅巾の乱に参加した朱元璋は、建康(現在の南京)を占領すると皇帝に即位し太祖洪武帝と称して明を建国し(1368年)、元をモンゴル高原に追い払って中国を統一しました。
洪武帝は宰相を置かず中央・地方の各行政機関の権力分散・相互牽制などで皇帝にすべての権力が集中するようにし、また土地台帳(魚鱗図冊)と戸籍・租税台帳(賦役黄冊)の整備、六諭(儒教道徳を説いた勅語)の発布などを行って農村のすみずみまで皇帝の権力がいきわたるようにしました。このほか皇帝の権威強化のため皇帝一代につき一つの元号を採用しました(一世一元の制)。
これらにより宋代以上に皇帝の専制体制が強化されました。
3代成祖永楽帝はモンゴルに支配された汚辱を晴らし民族の自尊心を取り戻すため国威発揚に努めました。朝貢貿易以外の貿易を認めず、また宦官の鄭和率いる大艦隊をインド洋に派遣し30余国に朝貢させました。
しかし明の貿易統制に反発してモンゴル系のタタールやオイラート族が明に侵攻し、また倭寇と呼ばれる海賊が沿岸部を略奪しました(北虜南倭)。
これらは貿易統制を弱めたことで収まりましたが、対策費捻出のため財政が悪化し国力を弱めました。
そこで明は税制を改正し、税を銀で納めさせるという画期的改革を行いました(一条鞭法)。
これにより明は一時国力を回復しました。
しかし強すぎる皇帝権のために増長した宦官と官僚グループ(東林党)との抗争によって政治が混乱し、さらに日本の朝鮮侵攻や女真族の侵攻など、内憂外観が続きました。戦費調達で農民の負担が増大したうえに飢饉が重なったため各地で農民反乱がおき、その反乱軍の指導者李自成によって首都北京は陥落して明は滅亡しました(1644年)。
(4)清
清は満州族の建てた王朝です。満州族とは女真族のことで、後に自ら民族名を変更しました。
建州部のヌルハチは諸部族を統一し後金を建国しました(1616年)。
その子ホンタイジはモンゴル族の本流チャハル部を服属させ内モンゴルを併合しました。そのとき元帝室の国璽を手に入れ、モンゴルの大ハーンを兼ねました。さらに朝鮮を服属させ、国号を清と改めました(1636年)。
3代順治帝のとき、明を滅ぼした李自成を追い払い北京を占領しました。清は投降した漢族の将軍に明の残党を討伐させ藩王に封じて地方を統治させました。清は辮髪令を出して漢族に満州族の髪形を強要し、また政治の混乱を招いた宦官制度を一時廃止し、復活後も政治介入を厳しく取り締まりました。一方で明の制度を継承し漢族の文化を尊重しました。科挙を実施し、官庁には満州人と漢人を併用しました。
4代康熙帝は藩王たちを滅ぼし(1681年)、中国本土を完全統一しました。
また明の遺臣鄭氏が支配していた台湾を制圧し併合しました。
さらにモンゴル系ジュンガル帝国を外モンゴルから追い払い同地に住むモンゴル系ハルハ部族を服属させました(1696年)。
5代雍正帝のとき、チベットに侵攻し支配下に置きました(1724年)。さらにチベットを分割し一部を清の直轄領に組み込みました。
6代乾隆帝はジュンガル帝国を滅ぼし(1758年)、ほぼ現在の中国とモンゴルを合わせた領土を手に入れました。
しかし、この頃から官僚の腐敗などが進み各地で農民反乱がおき始めました。
また正規兵(八旗緑営)はしだいに特権階級化して贅沢に慣れ親しんだため、かつての質実剛健の気風が失われ無力化していました。
このように清の支配力が低下する中で、欧米列強が押し寄せてきます。
またどの王朝も前王朝の失敗を踏まえて国作りをしたので、前王朝の衰退・滅亡の要因を意識して学習すると後の王朝がなぜそのような方策を取ったのかがみえきて理解が深まります。