豊臣秀吉の一生 | 4コマ漫画で歴史の勉強
織田信長の後を継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉。
信長に仕え、草履取りから足軽、さらに上の役職へと、次々と出世をしていきます。
立身出生から天下統一、朝鮮出兵まで、秀吉の一生を4コマ漫画にまとめました。
立身出世
農民の息子として生まれた秀吉は、戦国の世の中を変えたいと大志を抱き、信長の家来に志願します。
秀吉は、草履取りとして召し抱えられると、一生懸命働き、ドンドン出世していきました。
寧々との結婚
信長に気に入られ、足軽に出世した秀吉。
ある日、信長の鷹狩りにお供したとき、休憩によった浅野家の屋敷で、寧々に一目惚れします。
秀吉は足軽で、寧々は浅野家の養女でした。身分が違いすぎると、最初は反対されましたが、周囲の後押しもあって、秀吉と寧々は無事に結婚し、生涯仲睦まじく暮らしました。
墨俣城
隣国美濃(岐阜)の大名、斎藤一族との戦いに苦戦していた信長は、前線基地として、墨俣の地に、城を築こうとしていました。
しかし、斎藤軍に阻まれ上手くいきません。
他の家臣は失敗しましたが、秀吉は僅か1週間の短期間で墨俣城を完成させます。
阿坂城攻め
信長の南紀伊(三重)侵攻にあたり、阿坂城攻略を任された秀吉は、城の周囲を取り囲み奮闘します。
戦いの途中で、秀吉は弓で負傷してしまい劣勢になりますが、すでに城内の家臣を寝返らしており、逆転勝利します。
戦術よりも、戦略や調略が得意な秀吉らしい戦いです。
小谷城の戦い
同盟を裏切った浅井家を根絶やしにするため、小谷城に攻め入る信長軍。
秀吉は山の中腹にある砦「京極丸」の攻略に成功し、信長軍の勝利に貢献しました。戦いの後、秀吉は浅井家が治めていた、近江近郊の地盤をそのまま受け継ぎ、一国一城の主になりました。
三木の干殺し
播磨国(兵庫県)の別所長治は、一度は信長についたが、毛利に寝返ります。激怒した信長は秀吉に討伐を命じます。
三木城に籠城した別所に対して、秀吉は城の周囲を囲み兵糧攻めを始めます。秀吉軍は周辺の別所勢力を各個撃破していき、補給路をたっていきました。
約二年にわたる長期間の籠城戦の末、別所は兵の命を助ける事を条件に自刃し、秀吉軍が勝利しました。
手取川と信貴山城の戦い
上杉謙信に攻められた七尾城の城主は、信長に助けを求めました。信長は、柴田勝家を総大将に4万の兵を援軍として派遣します。
柴田と折り合いの悪かった秀吉は、行軍途中に無断で隊列から外れ、自分の城に帰還した。
激怒した信長は、忠義の証を立てろと、信貴山城の戦いに秀吉を送ります。信貴山城の戦いで勝利すると、信長の機嫌は治り秀吉を許しました。
中国大返しと山崎の戦い
信長の命令で、中国地方を治める毛利軍と戦っていた秀吉ですが、本能寺の変を知ると、すぐに毛利軍と和睦を結び休戦します。
京都までの約230キロを、僅か10日で踏破する強行軍「中国大返し」を行うと、山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇をとりました。
賤ケ岳の戦い
本能寺の変の後、信長の跡目を巡り、秀吉と柴田勝家は対立を深めました。柴田は織田信孝や反秀吉勢力をまとめて、滋賀県北部の賤ケ岳で戦います。秀吉は持ち前の行動力で柴田軍を破り、反対勢力を粛清し、信長の領土や基盤を受け継ぎました。
小牧長久手の戦い
天下人のようにふるまう秀吉を快く思わない織田信雄と、徳川家康は手を組み秀吉に戦いを挑みます。尾張(愛知県)の小牧長久手の地で、秀吉軍と家康連合軍の両軍は戦い家康軍が勝利します。
大阪に引き上げた秀吉は、織田信雄を家康から寝返らせて、家康から信長の後継者を支援するという大義名分を奪い、和睦に持ち込みました。
秀吉は戦術では家康に負けましたが、戦略で勝利しました。
九州平定
中国、四国を平定した秀吉は、次は九州を狙いっていました。
九州では島津と大友が争っています。大友からの援軍要請を受けた秀吉は援軍を派遣します。
しかし、島津軍は強く手こずります。業を煮やした秀吉は、自ら20万の大軍を率いて進軍して、島津を破り九州を平定しました。
刀狩り
天下を統一しつつあった秀吉は、兵農分離政策の一つとして、農民に刀の所持を禁じた「刀狩り」を行います。
一揆抑止の目的もありましたが、刀は武士だけが持つ特別な者だと、知らしめる役割があり、刀以外の武器の所持は許されていました。
小田原攻め
全国各地の戦国武将を破り、天下まであっと一歩の秀吉。
残るは関東地方を治める北条家だけです。しかし、北条家はプライドが高く、農民出身の秀吉には従わず、勝手に近隣諸国に侵攻していました。
これでは示しのつかない秀吉は、北条家に大軍で攻め入り、包囲殲滅しました。
朝鮮出兵
日本国内を平定した秀吉は、次は朝鮮を手に入れようと、朝鮮半島に2回出兵します。
日本の武将達は善戦しましたが、途中で明軍(現在の中国)が朝鮮軍の味方につくと、戦争は膠着状態になりました。
戦いの途中で秀吉は死去してしまい、日本軍は朝鮮半島から撤退します。