徳川家康の一生 | 4コマ漫画で歴史の勉強

三河平定から天下分け目の関ヶ原の戦い、豊臣勢力との争いまで、 織田信長、豊臣秀吉に並ぶ三英傑の一人、徳川家康の一生を4コマ漫画にまとめました。

誕生から信長との同盟

誕生から信長との同盟
1543年に生まれた徳川家康は、幼少期から人質として織田家・今川家の元で過ごします。
成長した家康は、そのまま今川家の家臣となり戦場に出陣します。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、家康は戦後のどさくさに紛れて破棄された岡崎城の城主となりました。
当主が死んだ今川家は衰退していき、家康は今川と距離をおき織田信長と同盟を結びました。

三河平定

三河平定
今川と決別を決めた家康ですが、三河(愛知県東部)国内の今川派家臣たちは大反対します。今川派は、反家康や一向宗とも結託して三河一向一揆を起こし、国内は内乱状態になります。
一揆衆に手をやく家康でしたが、少しずつ確実に撃破していき、三河を平定しました。

姉川の戦い

姉川の戦い
信長は、朝倉との戦いのさなか浅井家に裏切られて大激怒しました。同盟国である家康は、信長の要請に応えて、共に討伐するために出陣します。
滋賀県の姉川で、家康・信長連合軍と、浅井・朝倉連合軍が戦います。家康軍は家臣の奮闘もあり、姉川の戦いは家康・信長連合軍が勝利しました。

武田との戦い

武田との戦い
甲斐の武田信玄は、信長を討つために上洛する『西上作戦』を開始します。信玄は信長の同盟国である家康の三河に侵攻しました。三河領内で起きた三方ヶ原の戦いで、家康は大敗します。
しかし、行軍中に信玄が死亡したために、武田軍は甲斐に帰ってしまいました。
信玄の死後は、後を継いだ息子の武田勝頼と戦い。家康は信長と協力して、武田家を滅亡させました。

伊賀越え

伊賀越え
家康は京都で信長との会食後、大阪の堺に、僅かな側近だけを連れてやってきていました。そんな中、突然、本能寺の変で、明智光秀が信長を討ちとった事を知ります。
このまま堺にいると、明智の手の物に殺さる恐れがあった家康は、あえて治安の悪い伊賀越えのルートを抜けて、三河へと戻りました。

天正壬午の乱

天正壬午の乱
信長の死後、旧武田領の甲斐を巡り、上杉、北条、徳川の三つの軍勢が争います。
元武田の家臣であった真田昌幸は、優勢な軍勢に次々と寝返りました。最終的に徳川につくと、北条の補給路を絶つ作戦で活躍して、徳川軍に大いに貢献します。
そして、争いは徳川と上杉が、殆どの領地を手に入れて終結しました。

小牧長久手の戦い

小牧長久手の戦い
信長の基盤を引継ぎ、急速に勢力を伸ばす秀吉が気に入らない織田信雄は「我こそが信長の後継者だ」と、家康に秀吉討伐の協力をお願いします。
秀吉と徳川の両軍は小牧長久手で戦い、家康が勝利します。
しかし、秀吉は戦いの途中で大阪に戻ってしまい、外交で信雄と和解します。
信雄の勝手な行動により、戦う理由を失った家康は、秀吉と和議を結び戦いは終了しました。

小田原征伐

小田原征伐
秀吉に従わない北条家の討伐に、全国の武将達や家康も参加しました。大規模な包囲殲滅戦の後、北条家は滅亡します。
家康は、三河から北条家の治めていた関東地方に国替えになり、後の徳川幕府の基盤となる地方を治める事になります。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い
秀吉が死亡すると、石田三成と家康は対立を深めました。
三成は毛利や反徳川派を纏めて西軍に、家康も自分を指示する武将たちを集めて東軍を編制して、関ヶ原の地で両軍は戦います。
戦いが始まると、西軍の小早川の裏切りにより、東軍が勝利しました。

大阪冬の陣・夏の陣

大阪冬の陣・夏の陣
関ヶ原の戦いのあと、暫くは豊臣と徳川は争う事はありませんでした。しかし、家康は晩年、因縁をつけて強引に開戦します。
大阪冬の陣、翌年の大阪夏の陣と、2回にわたり大阪城周囲で大規模な合戦をして、残存する豊臣勢力を滅ぼしました。

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