織田信長の一生 | 4コマ漫画で歴史の勉強
尾張(現在の愛知県)にて生まれた織田信長。
尾張の大うつけと呼ばれながらも、多くの戦いを勝ち抜き天下統一に王手をかけました。
そんな信長の、出生から本能寺の変までの一生を四コマ漫画にまとめました。
5分程度で読み切れる内容ですので、学校の勉強、テスト前の学習、受験対策に是非ご利用下さい。
出生
1534年に尾張(現在の愛知県)で生まれた織田信長。破天荒なエピソードが多く、尾張の大うつけと呼ばれていました。
信勝との争い
父、織田信秀の死後家督を継ぐも身内に敵も多く、弟である織田信勝との戦いの後、尾張を統一します。
桶狭間の戦い
隣国、駿河(現在の静岡県中部)の今川義元との間に勃発した桶狭間の戦いにて、今川義元を討ち取り「信長」の名を世間に轟かせました。
斎藤家との戦い
1556年~1573年と長く続いた斎藤家との戦い。
斎藤道三の子供、義龍に手を焼きますが、最終的には孫の龍興を破り、信長は岐阜城の城主となります。
姉川の戦い
京都から尾張一帯を治めた信長の進撃を阻もうとした、浅井長政、朝倉義景との間に発生した姉川の戦いで、信長は家康と手を組み勝利を収めます。
長島一向一揆
1570年~1574年頃、信長の勢力拡大に反抗していた石山本願寺の門徒衆や農民との間に起きた戦いが長島一向一揆です。
戦いの中で、信長の弟、信興(のぶおき)が自害に追いやられたり、2度の敗走をするなど苦戦をしますが、最終的には信長が勝利を収めました。
比叡山焼き討ち
志賀の戦いで逃走した浅井、朝倉両軍をかくまった比叡山延暦寺と信長は対立を深め、説得に応じない比叡山を信長は焼き討ちしました。
三方ヶ原の戦い
武田軍が家康の領地を勝手に素通りしようとした際、家康軍が追撃を行い発生した戦いが三方ヶ原の戦いです。
家康と同盟にあった信長との連合軍で武田信玄と戦いますが、最強武田軍を前に惨敗してしまいます。
室町幕府の滅亡
信長は各地を放浪していた足利義昭(よしあき)を擁立し、将軍へと就かせます。
最初はうまくいっていた二人の仲ですが、徐々に悪化し、信長から「十七の意見書」、が届くと、完全に決裂します。
戦いの末、最終的には義昭は追い出され、約240年続いた室町幕府は滅亡します。
長篠の戦い
武田信玄の死後、おとなしかった武田軍ですが、息子の武田勝頼は1575年に長篠城に侵攻し、長篠の戦い(長篠の合戦)が勃発します。
この戦いで、武田軍は救援に駆け付けた信長と家康連合軍に大敗し、1582年、織田、徳川連合軍による甲州征伐で滅びます。
謙信死す
能登国(石川県)を侵攻していた上杉謙信に対し、長続軍からの援軍要請を受けた信長は、柴田勝家と羽柴秀吉、前田利家などの軍勢を派遣。
七尾城が落城したことを知り撤退を開始した信長軍ですが、上杉軍の追撃・手取川の増水に手惑い、手痛い敗北をしました。
翌年、上杉謙信が急死し弱体化するまで、信長の北陸侵略は停滞していました。
本能寺の変
1582年、秀吉の援軍に行ったはずの明智光秀は、信長が滞在中の本能寺を急襲しました。
多勢に無勢で、天下統一に王手をかけながらも最後は燃え盛る本殿の中で自害しました。