【天保の改革】誰がいつおこなった?内容をわかりやすく解説

「天保の改革」の内容について解説します。誰がいつ行ったかに加え、単に政策を羅列するのではなく改革にいたった背景を踏まえて説明します。

天保の改革解説

天保の改革とは

天保の改革は、19世紀中ごろに行われた江戸幕府の幕政改革です。「天保」は当時の年号です。徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革とともに江戸時代の三大改革に数えられています。改革を主導したのは老中の水野忠邦です。

寛政の改革は、一般的には11代将軍徳川家斉が亡くなった1841年から忠邦が失脚する1843年までとされています。

忠邦が享保・寛政の政治を模範としその時代への復古を目標に改革を断行すると宣言したとおり、天保の改革は基本的に享保・寛政の改革を踏襲するものでした。

天保の改革が行われた背景

では、なぜ天保の改革は行われたのでしょうか。その理由は以下のとおりです。

(1)「大御所時代」の放漫経営による幕府財政の悪化

徳川家斉の親政期間をとくに「大御所時代」といいますが、この家斉は実権を持ちながら政治的な信念や理想がなく政治に無頓着でした。そのため財政規律が緩み、大奥女中そして家斉自身の華美な衣装、ぜいたくな食事等のために幕府の予算が浪費されました。この時代は国会も選挙もないので為政者の好き勝手がまかりとおっていたのです。このような怠惰な政治と浪費が続いた結果、歳出が増大し幕府財政は窮迫します。

また怠惰な政治により、農村が荒廃し、農村から都市部へ人口が流出しました。その結果、幕府の主要財源である年貢収入は年々低下していきます。
改革が開始される前の年貢収入は約132万石でしたが、これは享保の改革が開始される前の水準(約139万石)を下回っていました。

その結果、歳出が歳入の倍に達する状態となりました。

(2)退廃的風潮の蔓延

大御所時代のぜいたく、放漫な幕府経営、さらに商品経済の発展により華やかな町人文化が発展しましたが(化政文化)、その反面、社会問題の深刻化や幕府の統制にやりばのない不満が民衆の間に広がっていました。

その不満を恋愛、色欲、娯楽などでごまかそうとする無気力、怠惰、不健全、享楽的な風潮が広がっていました。
現代にたとえていうなら「長時間働いても非正規社員だから給料が上がらない、政治家や官僚ばかりがいいおもいをする、まじめに働くのばかばかしい。今楽しければそれでいいや」といってゲームや出会い系サイトにはまるような風潮です。

このような無気力な社会はやがて生産性を引き下げさらに社会を悪化させます。

とくに質実剛健を尊ぶ武家社会では重大な問題と考えられました。

(3)民衆の生活苦と相次ぐ暴動

天保の改革地蔵
〇天保の大飢饉

1833~39年の約7年間、大雨、洪水、冷害などの異常気象が続き深刻な飢饉が発生しました。享保の大飢饉は主に西日本限定で、天明の大飢饉は比較的短期間でしたが、天保の大飢饉は広範囲かつ長期におよび、その被害は甚大でした。

秋田県の由利本庄市矢島地区(旧矢島町)の記録では、1833年に田植えの頃に寒中のような寒さとなり、その後30日間大雨が続き、旧暦8月2日にあられが降り、旧暦9月26日に雪が降ったとあります。そして無縁の餓死者1075人を供養したと伝わっています。
このほか、惨状を伝える記録がいたるところにあります。

この時代は海外との交易が制限されていたので現在(例えば1993年)のように米を緊急輸入することができなかったのです。

〇物価の高騰

このような大凶作は当然米価の高騰を招きます。また米商人が米の買い占めを行ったことで米価はさらに高騰し、庶民の生活を直撃しました。
1829年までは米一石(約150kg)につき銀50~70匁だったのが1837年には221匁(1匁≒1250円)になったそうです。

また他の物価も高騰しました。大御所時代に幕府が財政赤字を補填するため質の悪い貨幣(文政金銀)を大量に発行したからです。通貨の供給量が増えれば物価は高騰します。当時は中央銀行がなかったので政権の一存でいくらでも通貨を発行できたのです。

〇大塩平八郎の乱(1837年)

このような惨状に耐えかねた農民はついに一揆を起こします。とくに1830年代は多発しそれまでの最多記録を更新する10年間となりました。
また都市部では庶民が米を買い占めている米商人を襲撃する事件(打ちこわし)が多発しました。

そんな中、商人の町大坂で大坂東町奉行の元与力、大塩平八郎が暴動を起こします。
飢饉は大坂にも及び餓死者が続出しました。見かねた大塩は町奉行の跡部山城守に窮状を訴えましたが、山城守はほとんど聞き入れないばかりか幕府の命に従い貴重な米を江戸へ送りました。これに大塩は憤慨し門弟数十名とともに決起したのです。

暴動は半日ほどで鎮圧されましたが、幕府側であったはずの元役人が反乱を起こしたことは幕府に大きな衝撃を与えました。
この乱の影響は大きく、この後大塩の門弟と称して越後(新潟県)柏崎、備後(広島県)三原、摂津(大阪府)能勢でも暴動が起きました。
また大塩の乱とは関係ないが、大坂と同じく幕府直轄地であった甲斐(山梨県)や佐渡でも暴動が起きました。

元役人の暴動、幕府直轄地での暴動は幕府の権威を失墜させました。

(4) アヘン戦争

1840年にアヘン戦争が勃発し、清国がイギリスに敗れました。イギリスがあの大国清ですらかなわない相手とわかり、幕府は衝撃を受けてこれまでの国防・外交方針の再考を迫られました。

改革の具体的政策

では、このような状況に対し幕府はどのような改革を行ったのでしょうか。具体的な政策は以下のとおりです。

(1)財政再建

まず大御所時代に悪化した財政を再建することが急務でした。

〇歳出削減策

歳出削減のため、幕府は享保・寛政の改革にならい奢侈禁止令、倹約令を出して、ぜいたくな衣食を戒めるなど質素倹約を奨励しました。

また、武士だけに質素倹約を強いても効果があがらないので庶民にも同様の命令を出しました。倹約令は大御所時代にもたびたび出されていましたが、このときは本気度が違いました。箸(はし)、かんざし、櫛(くし)、ひな人形など禁止・制限対象を事細かに定め、また街に隠密(スパイ)を放っておとり捜査をするなど、かなり厳しいものでした。

しかし質素倹約は不景気をもたらします。そのため庶民の不満が高まりました。
また大奥の反発で質素倹約の効果はあがりませんでした。

〇歳入増加策

<年貢増徴>
天保の改革農村
年貢の増徴をはかるため荒地の「起返(おきかえし)」、新田畑開発の把握に努めたほか、近江(滋賀県)で検地を実施しました。しかし地元農民が検地に反対して一揆を起こしたため(三上騒動)、中止されました。検地とは現代でいう税務署の立入調査のようなものです。苦労して切り開いた田畑に土足で入りこまれては農民が反発するのは当然です。

そこで幕府は各地方代官に新田畑の調査を命じました(御料所改革)。立入調査の代わりに任意の税務調査をせよということです。
しかし任意といっても威嚇を用いた強圧的なもので、しかも低率であった新田畑の年貢率を引き上げたため、各地で反発が上がりました。そのため水野忠邦の失脚後中止になりました。

<人返しの法>

年貢収入を増やすには一定の農村人口を維持する必要があります。
そこで1843年に人返しの法を定め、①地方からきた者を新規に江戸の人別(戸籍に相当)に登録することを禁止する、②出稼ぎにくるときは領主の許可状を持参する、③江戸に来てまもなく妻子のいない者は故郷へ戻す、④人別改め(人口調査)は春秋2回行う、ことなどを決めました。
ただ移住者の暴動を警戒して、強制的な帰農よりは人別改めの強化が優先されました。そのためそれほど効果は上がりませんでした。

<上知令>

幕府は1843年に江戸と大坂の周辺をすべて直轄地にし、そこに領地を持つ大名、旗本を転封にすることを決定しました。これは享保・寛政の改革にはない独自の政策です。収穫量の多い豊かな土地を幕府の直轄地とすることで歳入を増加させようとしたのです。

しかし収入が減ることになる大名たちは当然不満を持ちます。

しかも、大坂周辺では大名たちだけでなく領民も反対します。領主に前払いしていた年貢や貸していたお金が領主の交替によって帳消しになることをおそれたためです。
さらに畿内に領地を持つ老中や御三家の紀州藩まで反対に回ったため、上知令は撤回されました。

(2)風紀粛正

天保の改革浅草
幕府はぜいたくや不健全な風俗、娯楽が退廃的な風潮を助長すると考え、倹約令とともに出版統制や娯楽への取締りを強化しました。

例えば、人情本作家の為永春水を処罰します。人情本とは現在でいう恋愛小説の一種で、なかには際どい性描写を含むものもあります。彼の『春色梅児誉美』は情婦の稼ぎにたよるヒモ男を主人公にした作品で、この点が当局の目にひっかかりました。

その他主な取締りは以下のとおりです。
・戯作者柳亭種彦に対する発禁処分
・検閲制度
・焼失した中村座の再建禁止、江戸郊外への移転命令
・七代目市川団十郎の江戸追放
・吉原以外の遊郭禁止

(3)民衆生活の安定化

幕府は暴動の原因は民衆生活の困窮にあると考えました。そこで物価抑制、金利引下げなど、民衆生活の安定化に取り組みました。

〇物価抑制
物価の高騰は庶民の生活を苦しめ、打ちこわしの原因にもなりました。そこで幕府は諸々の物価統制令を出したほか、以下のように物価の抑制を図ります。

<株仲間の解散>

幕府は、株仲間による市場独占が物価高騰の原因と考え、江戸十組問屋をはじめ運上・冥加金を収めていた全国のあらゆる業種の問屋、組合、株仲間に解散を命じました。
これにより商品の自由な移動が促され、物価が安定することが期待されました。まさに現在の独占禁止法を先取りしたものです。

ところが物価は期待したほど下がりません。
原因の一つは、株仲間の解散で江戸、大坂市場(しじょう)に対する信用が低下して物資の供給量が減少したことにあります。
株仲間は自主的に取引ルールを定め代金不払いなど、債務を履行しなかった商人との取引を停止することで取引の安全を保証していました。この保証機能がなくなったため、地方の商品経済の発展もあいまって江戸、大坂への物資の供給量が減りました。
供給量が減れば物価が下がらないのは当然です。

もう一つは諸藩の専売制です。諸藩は専売制強化のため、むしろ藩内での自由な取引を制限したり、高値で売るため価格を操作したりしていました。

結局、物価抑制の効果はあがらず、1851年に株仲間は復活します。

<貨幣改鋳>

天保の改革が始まると、物価抑制のため良貨を発行しようという意見が高まり、まず1843年に質の悪い文政金銀の鋳造を停止しました。

しかし良貨を発行すれば幕府が損を出します。仮に文政金銀以前に使われていた元文金銀を復活させると約2000万両の損失が出ると幕府は試算しました。
そのため良貨の発行は見送られました。

〇金利引下げ

高金利は庶民の負担を重くします。そこで幕府は一般の金銀貸借の利息を年一割五分から一割二分に引き下げました。
しかし、当時一般金融の中心だった質屋が反発しいっせいに休業するような態度をとっため、かえって庶民の生活に混乱をきたす場面も生じました。

(4)治安対策

民衆生活の安定化に取り組む一方で治安対策にも取り組みます

人返しの法は、先に述べた歳入増加策だけでなく、江戸の治安対策も目的としていました。貧困から逃れるため江戸に流入した多くの農民がしばしば治安悪化の原因となりました。実際、打ちこわしや大塩平八郎の乱などに参加する者もいました。

そこで、これ以上流民が増えて治安が悪化しないようにするため人返しの法が制定されました。

しかし、先に述べたとおり強制的な帰農より人別改めの強化が優先されたため、その効果には疑問が呈されています。

(5)海防強化

〇西洋砲術の採用

アヘン戦争でイギリスの国力を知った幕府は西洋砲術を採用し武力の強化を図りました。
長崎出身でオランダ人から西洋砲術を学んだ高島秋帆を登用し、武蔵国徳丸々原(東京都板橋区高島平)で日本初の洋式砲術の演習を行いました。

〇天保の薪水給与令

1842年、幕府はオランダ商館からイギリスが軍艦を派遣するという情報を得ました。
焦った幕府はイギリスとの衝突を避けるためそれまでの問答無用の打払いを止め、外国船に薪と水を与えて体よく追い払うという政策にあらためました。

〇印旛沼掘割工事

幕府は外国艦船による江戸湾封鎖とそれによって江戸が物資不足になることを懸念しました。
そこで物資輸送路の確保のため印旛沼掘割工事を計画しました。利根川から川伝いに江戸へ物資を運べるようにするためです。しかし巨額な財政負担が問題となり、忠邦の失脚後中止されました。

〇上知令

江戸、大坂周辺の支配強化のため上知令を計画します。

先に述べた上知令は歳入増加のほか海防対策の目的もあったのです。江戸、大坂周辺にある藩領の飛び地を一掃し江戸、大坂周辺を直接支配することがねらいでした。

また上知令は江戸、大坂だけでなく新潟湊にも適用されました。この頃横行していた密貿易を取り締まるためです。

しかし、先にみたとおり江戸、大坂に関しては、他の老中や御三家の紀州藩の反対もあって上知令は撤回されました(新潟湊は実施)。

上知令の失敗のあと、水野忠邦は老中を罷免され失脚しました。

天保の改革まとめ

天保の改革まとめ

結果

これまで見てきたとおり、天保の改革で成功した政策はほとんどありません。
失敗です。

その理由を端的にいえば、水野忠邦が理想を重視し現実を軽視したからです。
忠邦は侍の古き良き理想にこだわるあまり、「武士は農民からの年貢収入で質素に暮らすべき、金儲けは卑しい身分がするもの」という旧来の固定観念から離れられなかったのでしょう。
検地や人返しの法などで年貢増徴を計画する一方で株仲間を解散させて運上・冥加金を手放したのはそのあらわれといえます。
しかし19世紀には商品経済が農村にまで浸透していたため、全産業に占める米作の割合は年々低下する一方で商人の経済力は増していきました。そのような時代の流れのなかで年貢増徴・質素倹約による財政再建が失敗するのは当然です。

一方、同じころ薩摩藩や長州藩などは産業の育成、専売制の強化、金融、密貿易(違法ですが)など商品経済の発展という現実にそくした改革で藩の立て直しに成功しました。

政治というものは時代の流れをよみ現実にそくした対応をとることが大切だということをあらためて認識させられます。

天保の改革については、個々の政策を機械的に記憶するのではなくその政策がおこなわれるいたった背景を意識しながら勉強すると理解しやすいです。今回は天保の改革だけでしたが、享保の改革、寛政の改革でもそれは同じです。
また歴史上の出来事を現代になぞらえたり、比較したりするとイメージがつかめて理解が早くなります。今回はその点についても、少しですが、触れておきました。参考にしてみてください。
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