文化史 | 30分で学ぶ分野別日本史まとめ
日本史の文化に関する歴史を時代ごとに解説しました。 古代から現代までの文化の特徴を中心に記述しています
4.1 飛鳥文化(7世紀前半)
飛鳥文化は推古朝のもとで栄えた文化で、中国の南北朝文化と百済、高句麗という朝鮮半島の国々の文化的影響を強く受けています。
この頃には古墳に代わって寺院を建立することが豪族にとって権威を誇示する手段となります。
代表的な寺院は厩戸皇子(聖徳太子)建立の法隆寺と蘇我馬子建立の飛鳥寺です。
仏像では
北魏様式を用いた鞍作鳥による飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像
南朝様式を用いた広隆寺半跏思惟像、中宮寺半跏思惟像
が代表的です。
その他、法隆寺玉虫厨子と中宮寺天寿国繍帳も重要です。
白鳳文化(7世紀後半)
白鳳文化は天武天皇の下での文化で、初期の唐の影響が強いです。
仏教を国家が管理する体制がとられ、官寺と呼ばれる寺院が国家の手により作られました。
代表的な寺院は薬師寺で、仏像では薬師寺金堂薬師三尊像や興福寺仏頭が代表的です。
法隆寺金堂壁画や高松塚古墳壁画も重要です。
天平文化(奈良時代)
天平文化は聖武天皇の頃に栄えた文化で、唐の全盛期の文化の影響を受けています。
聖武天皇は仏教の思想により国家を安定させようとする鎮護国家の思想の下に国分寺・国分尼寺を全国各地に造らせました。
代表的な寺院は聖武天皇建立の東大寺と鑑真建立の唐招提寺です。
法隆寺の夢殿がこの時期に建てられたことにも注意が必要です。
仏像は乾漆像と塑像という2つの様式がありました。
乾漆像では、東大寺法華堂不空羂索観音像、興福寺阿修羅像、唐招提寺鑑真像があります。
塑像では、東大寺法華堂日光・月光菩薩像、執金剛神像があります。
その他には校倉造で建てられた東大寺の正倉院が重要です。
書物では、稗田阿礼が暗誦し太安万侶が記録した「古事記」、舎人親王が編纂した「日本書紀」、各地の特徴を収録した「風土記」が有名です。
和歌では「万葉集」、漢詩文集では「懐風藻」が代表的です。
弘仁・貞観文化(9世紀)
弘仁・貞観文化は平安時代初頭の遷都したての頃の文化です。
加持祈祷により救われるとする密教の色彩が濃い文化でした。
この文化で最澄の天台宗と空海の真言宗が始まりました。
このつながりで、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の金剛峰寺、嵯峨天皇が空海に与えた教王護国寺(東寺)を覚えてしまいましょう。
仏像では、一木造、翻波式による薬師寺僧形八幡神像、観心寺如意輪観音像があります。
密教の影響で曼荼羅が描かれました。
また、神道と仏教を混合した神仏習合という考え方もこの頃に盛んになりました。
書道では、嵯峨天皇、空海、橘逸勢が三筆と呼ばれ、勅撰の漢詩文集も編纂されました。
学問では有力貴族が大学別曹を設け、空海は庶民の教育機関として綜芸種智院を設立しました。
国風文化(10~11世紀)
国風文化は藤原氏全盛のころの文化で遣唐使の廃止により、日本独自の文化が生まれました。
この頃には正法・像法の世を経て末法の世に至るという思想が広まっていて、極楽浄土に往生することを祈る浄土教が流行しました。
空也や源信が浄土教の代表的人物で、源信は「往生要集」を書きました。
貴族の邸宅の様式として寝殿造が中心になりました。
寺院では浄土教の阿弥陀仏信仰を背景に藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂が有名です。
仏像では寄木造が広まり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像が代表的です。
日本独自の絵画として大和絵が生み出され、巨勢金岡が代表的画家です。
神道では本地垂迹説という考え方が登場します。
書道では、藤原佐理、藤原行成、小野道風の三蹟が中心で、和歌では紀貫之編纂の「古今和歌集」が編纂されました。
仮名文学も多く登場し、「源氏物語」、「竹取物語」、「土佐日記」、「枕草子」などが代表的です。
院政期文化(12世紀)
院政期には都だけでなく、全国各地に浄土教思想が広まりました。
それに伴い、中尊寺金色堂(岩手県)、三仏寺投入堂(鳥取県)などの建築が生まれました。
その他に装飾経が生まれ、厳島神社平家納経、四天王寺扇面古写経が代表的です。
この頃には絵巻物も作られ、「源氏物語絵巻」、「伴大納言絵巻」、「鳥獣戯画」が有名です。
流行歌を収めた後白河法皇編纂の「梁塵秘抄」もおさえておく必要があります。
文学では、軍記物語が中心で「将門記」が代表的です。
さらに、「栄花物語」、「大鏡」などの歴史書も書かれました。
鎌倉文化
鎌倉文化は、まず新仏教をおさえなければなりません。
法然は浄土宗を創始し、念仏による極楽往生を主張しました。
法然は「選択本願念仏集」を書き、浄土宗の中心は知恩院です。
親鸞は阿弥陀仏の救済の対象は悪人であるという悪人正機説を唱え、「教行信証」を著し、本願寺を中心として浄土真宗を開きました。
一遍は、踊念仏で各地で布教し、清浄光寺を中心に時宗を開きました。
日蓮は、題目を唱えることにより救済されるとし、「立正安国論」を書き、攻撃的な布教活動を行い久遠寺を中心に日蓮宗を開きました。
ここからは坐禅により悟りを開く禅宗です。
栄西は宋に渡り禅宗を学び、臨済宗を開きました。
栄西の著書は「興禅護国論」で中心は建仁寺です。
臨済宗は幕府の保護を受け、建長寺を建てた蘭渓道隆、円覚寺を建てた無学祖元が日本にやってきました。
道元はひたすら坐禅する只管打坐を唱え、「正法眼蔵」を著し、永平寺を中心に曹洞宗を開きました。
これに対し、旧仏教では法相宗の貞慶、華厳宗の明恵、律宗の叡尊、忍性が再興を図り活躍しました。
神道では度会家行が国風文化での本地垂迹説とは反対の神本仏迹説を唱えました。
鎌倉時代の建築様式には大仏様、禅宗様、和様、折衷様の4種類があります。
大仏様では東大寺南大門、禅宗様では円覚寺舎利殿、和様では蓮華王院本堂(三十三間堂)、折衷様では観心寺金堂が代表的です。
絵画では似絵が流行し、藤原隆信の「源頼朝像」、藤原信実の「後鳥羽上皇像」が有名です。
絵巻物も院政期に続いて流行して「蒙古襲来絵巻」、「一遍上人絵伝」、「北野天神縁起絵巻」が描かれました。
和歌では、後鳥羽上皇の「新古今和歌集」、源実朝の「金槐和歌集」、西行の「山家集」が代表的です。
文学では軍記物語が多く、「平家物語」、「保元物語」、「平治物語」などが書かれました。
歴史書では「吾妻鏡」、「愚管抄」が書かれました。
さらに図書館として金沢実時の設立した金沢文庫があります。
室町文化
室町文化は南北朝期・北山文化・東山文化に分かれます。
南北朝期の文化
室町幕府は禅宗を保護し、臨済宗の夢窓疎石がこの頃に活躍しました。
そして各地に臨済宗の安国寺が建てられました。
和歌では連歌が生まれ、二条良基は歌集の「菟玖波集」と規則を記した「応安新式」を残しました。
北山文化
北山文化は3代の足利義満の頃の文化で、鹿苑寺金閣(金閣寺)が代表的です。
この金閣は寝殿造と禅宗様の組み合わせで建てられています。
この頃には、臨済宗の寺院が五山・十刹などに分類され、絶海中津や義堂周信が登場し、五山文学が最盛期を迎えます。
この他、能では観阿弥・世阿弥が現れ、世阿弥は「風姿花伝」を著しました。
東山文化
東山文化は8代の足利義政の頃の文化で、慈照寺銀閣(銀閣寺)が代表です。
銀閣は書院造と禅宗様の組み合わせで建築されています。
特に書院造では慈照寺東求堂同仁斎が有名です。
庭園では枯山水が登場し、竜安寺石庭が代表的です。
水墨画は最盛期を迎え、雪舟が登場し、「四季山水図巻」などを残しました。
水墨画と大和絵を合わせた狩野派も確立しました。
南北朝時代に始まった連歌は、宗祇が正風連歌を創始し、「新撰菟玖波集」を編纂しました。
この他、村田珠光が侘茶を、池坊専慶が花道を創始しました。
桃山文化(16世紀後半~17世紀初め)
桃山文化は戦国時代の文化です。
城が各地に築かれ、城を中心とした建築や装飾が生み出されました。
絵画では狩野派が中心となり、狩野永徳は「洛中洛外図屛風」、「唐獅子図屛風」を描きました。
東山文化の頃に始まった侘茶を千利休が極め、妙喜庵待庵は茶室として有名です。
南蛮文化が流入し、活版印刷術が伝来し、天草版が生まれました。
出雲阿国は歌舞伎を創始し、江戸時代の歌舞伎へと続いていきます。
寛永期の文化(17世紀前半)
寛永期の文化は江戸時代初期の文化です。
建築では日光東照宮の権現造が代表で、その他には数寄屋造も流行します。
狩野派は全盛期を過ぎましたが、狩野探幽は「大徳寺方丈襖絵」を残しました。
また、俵屋宗達は大和絵の伝統の上に「風神雷神図屛風」を描きました。
工芸では本阿弥光悦が出て、「舟橋蒔絵硯箱」を製作しました。
陶磁器も各地で作られるようになり、有田焼ででは酒井田柿右衛門が赤絵を確立しました。
俳諧も生まれ、西山宗因の談林俳諧や松永貞徳の貞門俳諧が登場しました。
元禄文化(17世紀後半~18世紀前半)
元禄文化は5代将軍徳川綱吉の頃の文化で、上方の町人が文化の担い手となりました。
浮世絵が登場し、菱川師宣の「見返り美人図」はあまりにも有名です。
従来の大和絵では、俵屋宗達の系統で尾形光琳が出て、「紅白梅図屛風」を残し、琳派を創始します。
また、尾形光琳は工芸でも「八橋蒔絵螺鈿硯箱」を製作しました。
寛永期の文化で始まった俳諧を松尾芭蕉が発展させ、蕉風俳諧を創始しました。
文学では井原西鶴が登場し、様々なジャンルの作品を書きました。
「好色一代男」、「日本永代蔵」、などは井原西鶴の代表作です。
近松門左衛門は、「曾根崎心中」、「国姓爺合戦」などの人形浄瑠璃の作品を創作しました。
学問では、自然科学を中心に発達しました。
本草学では、貝原益軒が「大和本草」、稲生若水が「庶物類纂」を残しました。
和算と呼ばれる数学も盛んになり、天文学では渋川春海(安井算哲)が貞享暦を作りました。
化政文化(18世紀末~19世紀前半)
化政文化は11代の徳川家斉の頃を中心とする文化で、寛政の改革や天保の改革期も含みます。
化政文化の担い手は江戸の町人でした。
元禄文化で現れた浮世絵は最盛期を迎えます。
鈴木春信がカラーの浮世絵である錦絵を始めたことが契機となりました。
喜多川歌麿、東洲斎写楽、さらには葛飾北斎(「富嶽三十六景」)、歌川(安藤)広重(「東海道五十三次」)が活躍します。
絵画ではこの他、西洋画、文人画が登場します。
西洋画では司馬江漢、文人画では池大雅が代表的です。
俳諧から分化して川柳や狂歌も生まれました。
文学では山東京伝や恋川春町が活躍しますが、幕府から処罰されます。
その後、十返舎一九、為永春水、上田秋成、滝沢馬琴が登場し、名作を残しました。
学問では西洋の影響を受けた蘭学が盛んになります。
杉田玄白と前野良沢は「解体新書」を書き、蘭学を本格的に創始し、その流れは大槻玄沢、稲村三伯へと受け継がれていきます。
また国学も流行し、本居宣長は「古事記伝」を著しました。
思想では安藤昌益、海保青陵、本多利明、佐藤信淵がそれぞれ独自の理論を展開しました。
明治時代の文化
明治時代からは大量の知識が出てきて圧倒されます。
まずは、細かい知識にとらわれず骨格となる重要事項をおさえていきましょう。
美術
美術では当初、西洋美術が積極的に導入され、1876年に工部美術学校が設立され西洋画の普及に当たります。
西洋画はその後、浅井忠らの明治美術会、黒田清輝らの白馬会を中心に活動が続きます。
西洋画に対する反発もかなり強く、日本画の活動も本格化します。
フェノロサと岡倉天心は1887年、東京美術学校を創設し、西洋画に対抗します。
ここからは狩野芳崖や橋本雅邦らの画家が生まれました。
時代が進むにつれて、西洋画の存在は無視できなくなり、反西洋画の東京美術学校にもとうとう西洋画科ができます。
西洋画科の創設に怒った岡倉天心は日本美術院を設立します。
ここでは横山大観や下村観山が活躍しました。
西洋画と日本画の共存策として1907年に文部省美術展覧会(文展)が政府により開催されるようになりました。
しかし、この文展に対する反発として西洋画では岸田劉生らがフェーザン会を結成し、日本画では岡倉天心の死後、消滅した日本美術院が再興され、日本美術院展覧会(院展)を開きました。
文学
文学はまず、化政文化を引き継いだ形で戯作文学が登場しました。
仮名書垣魯文の「安愚楽鍋」が代表作です。
自由民権運動が高まると政治小説が流行します。
こうした流れに対抗する形で西洋の理論をもとに写実主義が坪内逍遥の「小説神髄」で登場しました。
写実主義は、小説の文章と普段の話し言葉を一致させようとする言文一致運動を起こし、二葉亭四迷らが活躍しました。
日清戦争の頃には北村透谷を中心にロマン主義が提唱され、森鷗外、泉鏡花らが登場しました。
日露戦争の頃になると自然主義が登場し、島崎藤村、国木田独歩らが活躍しました。
1910年代には夏目漱石が新しい文学を開いていきました。
短歌では、与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木らが活躍しました。
俳句では正岡子規や高浜虚子が登場しました。
演劇
演劇では歌舞伎が引き続き流行し、河竹黙阿弥が人気作品を生み出します。
一方、日清戦争前後には通俗的な大衆劇である新派劇が生まれ、日露戦争後には西洋の近代劇である新劇が生まれました。
新劇からは文芸協会や自由劇場が設立されます。
思想
明治初頭は西洋の文化の取入れが盛んであったことから、思想においても西洋の考え方が紹介されました。
福沢諭吉は「学問のすすめ」や「西洋事情」を著しました。
1873年には明六社が結成され、西洋思想の普及による近代化が図られました。
自由民権運動が高まると天賦人権論の考え方が広まり、中江兆民は「民約訳解」、植木枝盛は「民権自由論」を書きました。
また、一般の人々にも利益をもたらすような欧化政策をとるべきという平民的欧化主義の考え方が徳富蘇峰によって提唱され、「国民之友」が創刊、民友社が設立されました。
一方、三宅雪嶺は欧化主義に反対し、「日本人」を創刊しました。
この後の重要な思想としては、日清戦争と三国干渉の影響で対外膨張論が主張されるようになります。
大正時代の文化
大正時代の文化は明治時代の文化の延長線上にあります。
明治時代の知識を動員して理解するようにすると効率的です。
大正時代は一般民衆が文化の担い手となり、大衆文化が展開されました。
新聞や雑誌の売上げが急増し、ラジオ放送も開始されました。
文学では、武者小路実篤、志賀直哉らの白樺派、谷崎潤一郎らの耽美派、芥川龍之介らの新思潮派、川端康成らの新感覚派と様々な文学の潮流が登場しました。
労働運動の高まりとともにプロレタリア文学も盛んになり、小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」などが代表作です。
演劇では、自由劇場の系統の小山内薫による築地小劇場と文芸協会の系統の島村抱月、松井須磨子による芸術座が中心的な存在となりました。
昭和時代の文化
昭和は文化がさらに庶民のものとなりました。
映画、ラジオさらにはテレビが普及し内容も充実し、週刊誌の売上も急速に伸びました。
自然科学の分野ではノーベル賞受賞者が出るようになりました。
人文科学や社会科学では、マルクス主義が解禁され、飛躍的に研究が進歩しました。
1949年の法隆寺金堂壁画の焼損を受けて文化財保護法も成立しました。
昭和時代の文化も明治からの発展の上に成り立っていることを意識して学習するのが効率的です。