社会史 | 30分で学ぶ分野別日本史まとめ

日本史の社会史について、各時代ごとに解説しています。 社会史は広範にわたるので重要な点を記述しました。

社会史_30分で学ぶ分野別日本史まとめ

旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代

旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代

旧石器時代

旧石器時代は氷河時代であり、寒冷な氷期とやや暖かい間氷期という時期を繰り返していました。

日本列島は大陸と陸続きであり、マンモス・ナウマン象・オオツノジカというような大型動物が生息していました。

人々はこうした大型動物を狩猟して生活していました。

遠くまで大型動物を探さなければならず、移動しながら生活をしていたため本格的な住居はありませんでした。

狩りには打製石器を使用していました。

打製石斧、尖頭器、ナイフ型石器、細石器などの打製石器と呼ばれる分類の石器が使用されていました。

縄文時代

約1万年前になると、氷河時代が終わり、気候が温暖化します。

氷が解けたため、日本列島は大陸と切り離され、ほぼ現在の形となりました。

これを画期として、縄文時代が始まります。

旧石器時代のような大型動物は姿を消し、ニホンシカやイノシシなどの中小動物が増えて狩りの対象が変化しました。

こうした移動速度の速い動物を捕らえるために弓矢が使用されるようになりました。

弓矢には黒曜石が使用されたため、このような資源を得るために物々交換による地域間での交易も行われるようになりました。

また、海が身近になったことで漁労と呼ばれる漁業が活発になり、銛・釣針・やすという動物の骨を用いた漁のための道具である骨角器が使われました。

石器の技術も進歩し、打製石器に代わり磨製石器が使われるようになりました。

狩猟の対象が大型動物から中小動物に変化したことにより、移住する必要も低下し、人々は竪穴住居に定住するようになりました。

低温で焼かれた縄文土器が使われ、土器のタイプの変化から草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに区分されます。

縄文時代には富の集積による社会的地位の別は見られず、人々は自然物や自然現象に霊魂の存在を認め、信仰するアニミズム(精霊崇拝)が広まりました。

土偶や石棒、抜歯の習慣も縄文時代の大きな特徴です。

約2500年前の縄文時代の終わり頃になると西日本で稲作が始まりました。

菜畑遺跡(佐賀県)、板付遺跡(福岡県)は稲作の始まりを証明しています。

弥生時代

稲作の始まりにより時代は弥生時代へと移ります。

木鍬・木鋤・田下駄などの木製の農具が使われ、これは次第に鉄製のものへと移行していきます。

最初は収穫量の少ない湿田が中心でしたが、灌漑施設の進歩とともに収穫量の多い乾田に進化します。

収穫には石包丁、脱穀には木臼・竪杵が使われ、稲の保存には高床倉庫が建てられました。

縄文土器と比べると高温で焼かれた弥生土器が使われるようになりました。

稲作の開始とともに弥生時代の大きな特徴は、青銅器と鉄器が使われるようになったことです。

青銅器は銅鐸・銅矛・銅戈・銅剣などの祭器として用いられました。

一方、鉄器は工具・農具など実際の生活において使われました。

稲作により富の集積が可能になると、貧富の差が生じ支配階級というものが現れてきます。

そうした中で戦争も起こるようになり、防御機能の高い環濠集落・高地性集落が現れました。

また有力者の墓として甕棺墓・支石墓・方形周溝墓なども出現し、古墳時代への道が開きます。

ここまでの旧石器時代・縄文時代・弥生時代の学習で重要なことは狩猟対象の変化や稲作の開始などが時代を画する出来事となっていることです。このことを念頭に置くと各時代の生活の変化が理解しやすくなります。

古墳時代

各地の有力者は自分の権威を誇示するために古墳を作りました。

古墳時代は前期(3世紀中頃~4世紀後半)、中期(4世紀後半~5世紀末)、後期(6世紀~7世紀)に分類できます。

前期は西日本が中心でしたが、中期になると日本各地に古墳が広がります。

前期と中期の古墳の主流は前方後円墳でした。

竪穴式石室という1人を埋葬するためだけの構造の古墳が作られました。

箸墓古墳(奈良県)・大仙陵古墳(大阪府)が代表的です。

後期になると古墳は大有力者のみならず、手軽に作られるようになりました。

その結果、1人のためだけではなく後から追葬することが可能な横穴式石室という構造の古墳になりました。

群衆墳とよばれ、1カ所に多数の古墳が見られるようになったことは古墳の一般化を表しています。

後期古墳として代表的なのは、岩橋千塚(和歌山県)や吉見百穴(埼玉県)です。

古墳が誰でも作れるようになってくると、当初の権威を誇示するという目的は失われ、古墳は衰退します。

副葬品の特徴もまとめておきます。

前期は銅鏡・勾玉など宗教的権威を示すものが特徴的でした。

中期になると武力による支配が当然のこととなり、武器・武具など武力を誇示するものが副葬されました。

後期になると古墳の大衆化を受け、土器など日用品が副葬されるようになりました。

支配者の特徴が古墳にも大きく影響を与えていることをよく理解してから学習してください。

奈良時代・平安時代

奈良時代・平安時代
大化の改新後、646年の班田収授法により、土地は国有化され、口分田として人民に分配されるようになります。

しかし、人口の増加で口分田は不足し、律令制で課せられる重い税や労役に窮乏した人々は口分田を捨て、逃亡・浮浪するようになり、律令制は存続の危機に直面しました。

このような事態を打開するために出されたのが、三世一身法(723)や墾田永年私財法(743)でした。

自ら開墾した土地を所有することが認められたのです。

こうして8世紀~9世紀に初期荘園が現れます。

開墾により土地を取得したことから墾田地系荘園とも呼ばれます。

開墾を進めたのは高級貴族や寺社で周辺の班田農民や浮浪した農民を使い土地の開発を進めました。

11世紀になると荘園の性質は変化します。

寄進地系荘園と呼ばれるタイプの荘園が流行しました。

国司からの過酷な徴税を逃れ、保護を得るために、土地を開発した領主は有力貴族や寺社に荘園を寄進します。

寄進を受けた有力貴族や寺社はさらなる保護を求めて、皇族・摂関家・大寺社にさらに土地を寄進します。

このようにして公有地である公領とは別に荘園が広がりました。

荘園の実質的な管理者である開発領主は有力者の保護を背景に不輸・不入の権を獲得し、自分の土地を守るために武装するようになり、武士の起源となります。

荘園の流れを知ることが奈良時代・平安時代の社会構造を知る上での基礎となります。

公地公民制から土地の私有化への時代の流れをしっかり理解しておきましょう。

鎌倉時代・室町時代・江戸時代

鎌倉時代・室町時代・江戸時代

鎌倉時代の商業

鎌倉時代になると貨幣経済が一般的になり、宋からもたらされた宋銭が用いられました。

そして、年貢も貨幣で納めるのが一般的になり、遠隔地同士の金銭の取引を為替で行うようになりました。

このように貨幣経済とそれに伴う取引が活発になると、商品の運送業者である問丸や高利貸しの借上が登場しました。

商業の場所として各地で毎月3回開催される三斎市が現れ、常設の店舗である見世棚も見受けられるようになりました。

室町時代の商業

室町時代になるとさらに貨幣経済は浸透し、明銭が使われるようになりました。

質の悪い貨幣を市場から排除するために撰銭とよばれる貨幣の選別が頻繁に行われました。

酒屋や土倉と呼ばれる金融業者が最盛となり、遠隔地取引には割符が用いられました。

商工業者たちは同業者同士で座と呼ばれる組合を結成し、鎌倉時代の三斎市は六斎市へと進化し、見世棚は普及していきました。

江戸時代の商業

江戸時代には貨幣経済は高度化します。

金・銀・銭の三貨が経済活動で使われ、幕府は三貨間の交換比率を定めたりして経済の安定を図りました。

こうした三貨の交換には両替商も活躍しました。

交通網の整備とともに商業活動は大きく発展し、江戸・大阪・京都をはじめとして都市が繁栄し、今までの時代と比べて飛躍的に商人の社会的影響力が大きくなりました。

江戸時代の前期には大阪がとりわけ大きな役割を果たしました。

貿易網の要地に位置し、諸藩は大阪に蔵屋敷を置いて年貢米や特産物を集中させ、「天下の台所」と呼ばれました。

江戸時代後期になると、各地で特産品の生産が盛んになります。

諸藩の間での商業ネットワークが発達し、大阪の商業的地位は低下していきました。

代わりに江戸が商業的地位を上げました。

商業は鎌倉時代から江戸時代まで連続的に発展し、複雑になっていきます。

勉強を深めていこうとすると際限のない知識の山に追われます。

まずは、基本の重要語句をおさえ、必要に応じて細かい知識をくわえていくことが得策です。

鎌倉時代の農業

鎌倉時代には西日本で二毛作が行われるようになり、灯油の原料である荏胡麻を副業として栽培することが一般化しました。

牛や馬を用いた農業も行われ、肥料として刈敷、草木灰が本格的に普及しました。

室町時代の農業

基本の米作では早稲・中稲・晩稲という品種改良がなされ、二毛作だけではなく、三毛作も本格的になりました。

肥料では鎌倉時代の刈敷・草木灰に加えて下肥が広まりました。

江戸時代の農業

江戸時代には農具が進歩しました。

備中鍬・千歯扱・唐箕などがその代表です。

肥料では室町時代のものに加えて、イワシを乾燥させて使う干鰯、魚の油をもとにした〆粕、植物から作った油粕が金肥として使用され、農業生産力は飛躍的に向上しました。

さらに宮崎安貞の「農業全書」、大蔵永常の「広益国産考」など農業技術を解説した書物が出回るようになり、農業の発展に寄与しました。

農業も商業と同じく、鎌倉時代から江戸時代まで高度に発展し、複雑化していきます。

これを細かく追うのも大変な労力が必要です。

基本的なことを確実に覚えていくことが攻略の第一歩です。

明治時代・大正時代・昭和時代(戦前)

明治時代・大正時代・昭和時代(戦前)
明治時代になると西洋式の商業・工業システムが日本に取り入れられます。

経済の近代化

明治初頭以来、戦費調達の必要などから日本経済はインフレに悩まされました。

この打開策として1882年に日本銀行を設立し、銀との兌換が可能な通貨を普及させることでインフレは終息しました。

その結果、民間企業は活発化し、会社設立のブームが起こるほどになりました。

一方、地租が金納であり、増税もなされたため、小作農に転落する農民も増加し、一部の農民は労働者として都市に流入し産業革命の基盤となっていきました。

工業の近代化

日本の輸出品として主力であったのは生糸をはじめとする繊維製品でした。

政府は繊維部門に力を入れ、1872年には富岡製糸場を設立しました。

この結果、明治を通じて生糸は輸出品のトップでした。

日清戦争前後から輸出製品の製作のため紡績業にも注目が集まります。

1883年に大阪紡績会社が設立され、蒸気機関や機械など近代的な設備を用いて紡績を行ったことが近代化のきっかけでした。

日清戦争後に綿製品は輸出に転じ、豊田佐吉考案の国産力織機なども広まったことで綿織物業は大きく発展します。

このような軽工業の発展は日清戦争前後に成し遂げられましたが、一方、重工業の近代化は日露戦争前後に成し遂げられることになります。

政府は1901年、日清戦争で得た賠償金により官営の八幡製鉄所を設立し、鉄鋼業での近代化を図ります。

八幡製鉄所は成功し、以後、民間の工場も作られるようになりました。

大正時代には第一次世界大戦の頃から鉄鋼業はさらに発展し、化学工業や電力事業なども本格化しました。

世界恐慌から脱出する昭和初頭には、重化学工業部門で日産・日窒などの新興財閥も起こりました。

その後は戦争に向けて産業の国家統制が図られました。

財閥の形成と労働運動

このように日本で産業革命が成し遂げられると、親会社が傘下の子会社を支配し、多角的な経営を行う三井、三菱などの財閥が形成されるようになります。

一方、工場の労働者たちは劣悪な条件の下で働かされることもよくありました。

1897年には高野房太郎、片山潜らにより、労働組合期成会が結成され、労働者を守るための運動も本格的に始まりました。

1912年には友愛会が組織され、1921年には日本労働総同盟と改称して労働運動も高まりを見せます。

1920年には、日本で初めてのメーデーが行われました。

また、社会主義を基盤とした運動も政府の弾圧を受けながらも日本に根付いていきます。

1922年には日本共産党が結成されました。

労働運動の他に、農民運動や女性解放運動も盛んになりました。

この時代のまとめ

明治時代以降、経済の仕組みや産業の構造などは西洋のシステムを取り入れ、さらに複雑化しました。

時代が新しくなるごとに学習内容も複雑化し、なかなか理解し覚えるのは大変です。

まずは基盤となる明治時代の産業革命のあたりを徹底的におさえて、後は発展的内容として後回しにした方が得策です。

昭和時代(戦後)

昭和時代(戦後)
戦争が終わるとGHQの指令の下、経済の民主化が図られます。

五大改革指令の中には労働組合の奨励や財閥の解体が盛り込まれました。

1946年には持株会社整理委員会が発足し、1947年には独占禁止法、過度経済力集中排除法が制定され、財閥の解体が図られました。

しかし、冷戦が激しくなると、アメリカは日本経済の自立を優先します。

当時、日本経済を圧迫していたインフレを終息させるため、GHQは1948年、経済安定九原則を指令して、占領政策を転換し、緊縮財政、税制改革などを政府に実施させます。

これによりインフレは克服されましたが、日本経済は深刻な不況に陥り、経済の民主化もつ完全に終わりました。

日本経済が本格的に回復したのは、朝鮮戦争による特需景気によってでした。

その後、神武景気(1955~57)、岩戸景気(1958~61)、オリンピック景気(1963~64)、いざなぎ景気(1966~70)と高度成長期を迎え、日本経済は世界でも上位に入るまで発展します。

このような中、国民生活では消費が拡大し、テレビ・洗濯機・冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、家電製品が家庭に浸透していきました。

飛躍的な成長を遂げた日本経済も中東戦争による第一次石油危機により、1974年にはマイナス成長に転じます。

経済大国となった日本経済は世界情勢とのかかわりの中で経済の安定を模索することとなりました。

戦後の経済は戦前と比較してどのような構造になったのかということを意識して学習すると理解しやすいです。

まず、占領政策が日本経済にどのような影響をもたらしたのかというところから学習を始めましょう。

社会史を古代から現代まで見てきたのですが、時代によって全く様相は異なります。 勉強法としては、 ・理解できそうな時代を見つける ・1つの時代を繰り返し読んで、概要をつかむ ・ある程度できるようになったら、次にできそうな時代に移る このように繰り返すことで時代の全部ではなくても重要とされる知識はみについていきます。 あまり細かい知識を覚え続けると終わりがなくなるので必要とされる範囲を明確にしましょう。
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