15代将軍を中心に15分で学ぶ江戸時代まとめ
江戸時代を264年も治めた徳川十五代将軍を中心に、15分で江戸時代を振り返りましょう。
1. 幕府の成立期(家康、秀忠、家光、家綱の時代)
「江戸幕府を開いた・德川家康が征夷大将軍になった」のは1603年ですが、関ケ原の合戦に勝利した1600年9月には、「天下統一した」といえるほどに家康は実権を握っていました。
一方、「実際に天下を平定したのは1615年」とする説もあります。
当時の日本国内で、唯一、徳川家に対し、表向きにも従順でなかった豊臣家を滅ぼした「大坂夏の陣」があった年です。
勿論、豊臣以外にも、「何かあれば関ケ原の恨みを晴らす」と考えていた、の大名も多少はいました。
その筆頭の薩摩・島津家(76万石)は、幕府から強制された土木工事などで経済的に疲弊させられ軍備どころでなくなりました。
また長門(長州)・毛利家(37万石)は、関ケ原以前の領地約120万石であったから1/3に減らされたという“最大規模の経済封鎖”の影響があとから出て来て、藩主の毛利氏が幕府に対して「破産宣告」に近い申し出をするまでに疲弊しました。
同じころ、幕府は二代目の秀忠の時代、福島正則と加藤忠広(清正の息子)は領地を取り上げられます。加藤清正と福島正則は、德川の宿敵であった豊臣家に対して種々援助をしていた為、豊臣家討滅後、德川としては「軍事裁判」的発想で罰したと言われていますし、また領地没収は、家康から秀忠への遺言だった可能性が濃厚です。
以上、島津家と毛利家の弱体化、福島家・加藤家の討伐という、「反政府組織撲滅」1620年頃をもって「全国制覇」とみる考え方もあります。
(1) 全国制覇(天下統一)の定義は?
鎌倉幕府や室町幕府は「日本を制覇した」をしたとは言い難いでしょう。この時代は、幕府に従う武士(地主)と、そうでない武士(地主)の双方が存在していました。
幕府に従う地主(=「御家人」)と幕府との関係も「契約」であり、土地を所有する主な武士たちとの間で「その農地を所有することを認め、外敵が来たら守ってやる代わりに、年貢の一部を上納させる」というものでした。
平安時代から室町時代までの武士というのは、簡単に言えば「自衛の為に武装した大地主(農民階級)」でした。
一方、現代の成熟市場では「吸収と淘汰を繰り返した結果、巨大企業が寡占独占」となっているように、スケールメリットに勝るものがないのは古今東西変わりません。つまり大地主(武士)も戦国時代を経て、大規模武士の一部は現在の都府県単位の地主になるものも現れました。これが大名のハシリです。
当初はその「所有農地」での「年貢徴収」独占権しか持たなかったものが、隣国との争いに備えて軍事権を持つようになりました。やがて軍事の為には領民を当地する必要も出てきました。これが「民治(統治)」のハシリです。
こうして、軍事・統治の及ぶエリアが「支配地域」となりました。やがて吸収合併が進み “大企業(大名)” が増えると、大名クラスの規模が無いと農地支配でコスト負けするようになりました。
全国の土地が、必ずいずれかの大名によって支配されるようになったのが戦国時代終盤です。
そして、「(すべてではないが)大名の頂点として統治」という建前であった足利幕府にとって代わろうとしたのが織田信長であり、それを引き継いだのが豊臣秀吉です。
特に秀吉は「太閤検地」によって、全国の農地の地主(大名)を把握し、そして自らはそのすべての地主を統治しました。
また「刀狩り」によって、それ以前まで「腕力と武器があれば武士になれた地主」を農民身分に固定しました。
更に農地だけでなく、「国」や「領地」の境界も定めたことから、全国すべての土地を統治した初めての権力者で、この事実が初めての「武士による全国統一」でしょう。
秀吉の死後、既に「全国制覇」されていた全国の土地の統治者は、簒奪戦争(関ケ原の戦い)で家康に移りました。家康は土地(全国支配)権利を簒奪しただけで、Epoch -Makingなことをしたわけではありません。そして家康による天下簒奪を認めなかった豊臣等の大名を潰したり弱体化させたりすることによって、1620年頃(二代将軍秀忠の時代)に、日本のすべての土地の、直接或いは間接的に支配が監視しました。
(2) 家康の遺言通りに
家康は、鎌倉幕府や室町幕府、そして織田家や豊臣家という覇権者の子孫がなぜ長持ちしなかったかについて、よく勉強していました。そして德川家の支配を何十代も続けさせる為にのみエネルギーを使い、体制を作りました。
まず、自分の死後、秀頼と有力大名(福島正則や毛利・島津など)が提携して德川に反旗を翻したら、秀忠では勝てないと思いました。それゆえ、騙したという汚名を遺してまで、豊臣秀頼を殺害しました。
秀忠は1605年に将軍になったものの、家康が死ぬ1616年まで、最終決裁権を持たされていませんでした。そして秀忠自身も、自分は父家康のような統率力や知謀は無いと自覚していたので、家康の死後もその遺言通りのことしかせず、統治に関しても遺言で定められた譜代大名と相談しながら進め、一切独裁をしませんでした。
次に鎖国も、德川家の支配を長引かせる為だけの施策です。海外との接触で民間が知恵や力をつけると、德川家にとっての対抗勢力になる、と家康は考え始めていたようです。鎖国の完成は、島原の乱(1637年)以後ですが、幕府以外の貿易を制限し始めたのは家康が覇権を握っていた頃からでした。また、輸出よりも遥かに輸入が多かった為、代金として金が流出することを抑えたかった狙いもありました。
3代目の家光も、家康が定めた参勤交代の制度を強固にするなど、殆ど家康の“遺言”とおりの統治でした。この頃までの德川幕府には「庶民(主に農民)の為の政治」という発想はなく、德川家をいかに長持ちさせるかと、外様大名の勢力をいかに押さえつけるかという統治をおこなうことがメインでした。従い、家光とその幕僚は、大名の取り潰しや減封を大量に行いました。
家光も、四代目の家綱も、統治の殆どは幕僚任せだったと考えられます。尚、この二人の時代には出費がかさみました。家光は日光東照宮を豪華にさせ、また多くの家臣を共にして何度も参宮しました。
この結果、家康が子孫の為に残し、そして秀忠は殆ど手を付けなかったといわれる約400万両(現在価値で約8千億円)の半分ほどを出費したと言われています。
また、家綱もかなり財産を散じたようですが、その在位中に「明暦の大火」と呼ばれている江戸の大火事があり、復興のための出費も大きかったようです。
2. 中期(綱吉、家宣・家継、吉宗、家重・家治の時代)
4代将軍家綱に男児は生まれなかったので、次弟の綱重(既に死去)の長男・綱豊(のちの家宣)が、5代目の将軍になるのが順序とされていました。しかし家綱の死去当時に綱豊は幼かった為に、綱吉が将軍になった訳でした。
綱吉は在位期間も長く、15代の将軍の中でも独裁色が最も強かったといえます。秀忠以降、複数の譜代大名に任せていた統治を、殆ど自分で決裁する体制に変えました。
(1) 「犬公方」・・・生類憐みの令
綱吉を象徴する、史上最悪とも言われる令です。
跡取りの徳松が早死にした後、綱吉には男児が生まれませんでした。
そこへ、隆光という僧侶が、綱吉とその母、及び綱吉の取り巻きの牧野成貞と柳沢吉保の4人が揃って戌年だったことに着眼しました。「前世で殺生をしたから男児が生まれない。全ての生き物を殺してはならず、特に干支である犬を格別に大事にすれば、お世継ぎが生まれる。」と、無学な綱吉の母を騙し、そして綱吉が母の言いなりになりました。
例えば現在の中野区に、7万頭の野良犬を収容する施設を作りましたが、この維持費だけで年間数万両(数十億円)かかるなど、大変な出費となりました。
こうして綱吉の時代には、約400万両といわれる、家康が遺した遺産が底をついたと言われています。
(2) 重商主義の中で、日本で初めての「貨幣改鋳」と景気後退
当時の貨幣である金、銀、銅は、その生産量が減れば貨幣流通も減り、通貨供給の減少によるデフレ(景気減速)が起きていました。
それに対し、「金貨・銀貨にも銅を混ぜるなどして金銀の含有量を減らし、その分、金貨・銀貨の製造量を大幅に増やす」という策が、荻原重秀という幕府の下級役人によって発案され、側用人の柳沢吉保が実行しました。マネーサプライ操作により政府主導のインフレを起こそうという、近代経済学並の発想でした。
豊臣秀吉の時代に活況を浴びていた佐渡の金山が、この頃には枯渇するなどしたことも、金貨などが不足した一因でした。
現在ではコンドラチェフ曲線によって判明していますが、江戸幕府が開かれてから約100年続いた景気拡大期が、綱吉在位の元禄年間に峠を迎えたのは明らかです。
「通貨流通量増加によるインフレ政策」なので、景気回復後に引き締めすれば良かったところを、通貨下落と米価高騰の悪性インフレとなって、下級武士や町民の生活を圧迫しました。
やがて1707年(宝永4年)の富士山大噴火では江戸にも大量の火山灰を降らせ、川流を塞いだ火山灰によって洪水が発生し、空気中に舞う火山灰によって太陽光が激減して米の不作が深刻となり、不安から物価が暴騰しました。幕府税収不足を補うために繰り返した貨幣改鋳は、インフレ最中のインフレ政策だったため、経済は大混乱、赤字体質になっていた幕府財政にも打撃となりました。
他方、綱吉治世の前半は、経済的に勃興した大坂の町人が担い手となった「元禄文化」が栄えた時代でした。日本史で名付けられた文化(天平文化とか東山文化とか桃山文化)として、施政者ではなく庶民が中心となった初の文化と言われています。
松尾芭蕉らの影響で俳諧も流行しましたが、庶民への文学浸透には、将軍歴代で最も儒教を偏愛した綱吉による影響も無縁ではないと考えられます。
(3) 短かった六代目、七代目
男児を早く亡くした綱吉は、娘の嫁ぎ先である紀州徳川家の綱教を次の将軍にすることまで企んだようですが、流石にこれはその通りにならず、その死後、兄の息子であった綱豊が家宣と改名して、六代目将軍となりました。「生類憐みの令」は、後を継いだ家宣によって、ほぼ廃止され、推進役の柳沢吉保は辞職しました。
48歳で将軍となった家宣はわずか3年で他界しましたが、登用した学者・新井白石による政治は「正徳の治」と言われて評価されました。
前時代の柳沢吉保に代わって側用人となった間部詮房は、家宣の四男・家継が5歳で将軍になったのちも留任しました。当然のことながら直裁できない幼少少年の代わりとなっていましたが、間部が独身だったこともあり、生母・月光院との間の醜聞は有名でした。
やがて家継はわずか8歳で他界し、家宣・家継親子の治世は、合わせてわずか6年で終了しました。
(4) 農本主義に近い享保の改革
家継の死後、間部や新井白石は次の将軍に、尾張藩主・德川継友を推しました。しかし反間部派に推された紀州藩主・德川吉宗が八代将軍に就任した。こうなると間部は失脚です。
吉宗は「暴れん坊将軍」のモデルにされる程度の特徴は持っていたようです。まず彼は「将軍がやるべきことをやれば不要な職位」側用人を廃止し、それ以外も大幅な人員削減を行って幕府財政の立て直しを図りました。
また目安箱を設置するなど、德川幕府の中ではほとんど初めて、庶民の為の政治を行いました。これらは「享保の改革」と呼ばれ、寛政・天保とともに「江戸時代の三大改革」といわれています。
他方、この享保の時代に発生した「享保の飢饉」は、天明の大飢饉・天保の飢饉とともに江戸時代の三大飢饉ともいわれるので、皮肉でもあります。
「享保の改革」では、鎖国以来厳禁となっていたオランダの書物の流通を認めました。これにより蘭学を学ぶ医師などが長崎などに集まり、杉田玄白や前野良沢を通じて、幕末の蘭学勃興の祖となりました。また西洋医学で貧民救済もすべく、江戸小石川の薬草園に養生所を設けました。
(5) 綱吉の時代と似た「重商主義」へ
吉宗の在命中に9代将軍となった家重は、大御所・吉宗の死後、側用人を復活させました。任命された大岡忠光は、病気がちで言語障害のあった家重の事実上の通訳であったようです。また有名な田沼意次を低い身分から登用してたのも家重です。
家重の息子・家治が十代将軍になると、田沼は老中となり、政治は殆ど田沼任せでした。
吉宗の政治が「重農主義」であったのに対し、田沼の政治は一言で言えば「重商主義」で、収賄を除けば近代的な政治家だったという評価もあります。
しかし「重商」というのは、身分制度で一番下であったながらも、元禄時代から幕府や大名に多額の金を貸すことで力をつけた商人たちが勃興する施策です。年貢米を取り立てるだけで自給自足の生活を前提とする生活だからこそ、武士が威張ってられるのであり、保守の農本主義に対する「革新的な重商主義」というのは、しばしば抵抗勢力に足を引っ張られます。
田沼の長男は殺され、そして10代将軍家治が死去した直後に、田沼は罷免されました。
3. 幕府の後退期(家斉、家慶の時代)
綱吉の時代(1700年ころ)に峠を越えていた幕府の財政は、天明の大飢饉(1782~1788、10代目家治の晩年)で、壊滅的に近い打撃を受けました。飢饉の初期には浅間山が大噴火し(1783年)、前述の富士山噴火と同様の大被害がありました。
また同年に起きたアイスランドのラキ火山の噴煙は、北半球の大部分を覆って日照を減らし、フランス革命の遠因ともなりましたが、天明年間を通じて低温になった日本にも影響を及ぼしました。
(1) 農本主義への揺り戻し「寛政の改革」とその頓挫
飢饉の最中の1787年に将軍となった11代目の家斉は、これを立て直すべく松平定信(家治の従兄弟)を老中に登用しました。寛政の改革とよばれた松平定信(白河藩主)の治世は、彼の祖父にあたる吉宗による享保の改革を模範としたものとも言われています。
罷免された田沼は収賄の噂が絶えなかったこともあり、新しモノ好きの江戸っ子は「田や沼や汚れた御世を改めて清らに住める白河の水」と、田沼を貶めて白河(松平定信の領地)を持ち上げる川柳を流行らせました。
しかし、「贅沢禁止令」などの為に不人気となり、また商人に対する武士の借金を帳消しにさせる施策への反発を呼び、就任6年後には老中の座を去りました。
「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」とは、このときに江戸で流行った川柳です。倹約のみで堅苦しい白河(定信)よりは、収賄しながらも、ハンドルアソビのようなものがあった田沼時代を、新しモノ好きの江戸っ子が詠んだようです。
わずか6年で頓挫した寛政の改革ののちに44年も続いた家斉の時代には、再び収賄が奨励されました。家斉に政治的な功績はなく、記録に残るだけで55人の子供をつくったことで名を残しました。
(2) また農本主義の「天保の改革」と、また頓挫
家斉の次男・家慶が第12代将軍となった頃は、譜代大名の水野忠邦による「天保の改革」と呼ばれる財政再建施政の最中でした。
このころの幕府の“国家予算”は、50万両(≒50万石≒500億円)ほどだったと考えられますが、それと同額くらい、大規模商人から借金をしていたと考えられています。
(今日の日本では国家予算100兆円ほどに対してで1200兆円の借金があります)
この借金を減らす為に「節約」でしのごう、という施政でした。
元禄頃(綱吉の頃)から力を大きくした大坂商人らは、幕府と同じように「借金苦」になった大名にも巨額の融資をし、大名の年収である「米の取れ高」を借入金の担保にしていました。10万石の大名の年収は、現在の価値にすると約100億円ですが、大商人はこの程度の金額を何件もの大名に貸し付けていました。
この頃に、大商人の経済力が大名や幕府を凌いでいたのは、「商品経済」の発展によります。德川幕府は基本的に米を税収とすることしか考えていない単純な政権でしたが、18世紀末には既に米以外がGDPに占める割合が半分近くになっていました。
一国の産業規模全体の半分からの税収しかないのであれば、いかに倹約を続けても、欠乏していくのは眼に見えていました。
そんな中、水野忠邦も松平定信のときと似たように不人気となり、施政は14年続いたものの反対派から失脚させられました。
「大坂商人と商品経済の勃興」という現象に対して、幕府内部での覚醒は殆どありませんでしたが、大坂商人文化がレアリズムを生みました。レアリズムの学術的成果や思想的成果が、緒方洪庵の適塾、本居宣長や大塩平八郎の思想へ発展しました。
その後、例えば大塩平八郎の思想は西郷隆盛や吉田松陰へ、適塾からは佐久間象山を通じて桂小五郎や坂本龍馬と引き継がれで行きました。
4. 幕末・幕府の崩壊(家定、家茂、慶喜の時代)
12代家慶が死去して四男の家定が13代将軍となる寸前の1853年6月、江戸に近い浦賀へ、アメリカのペリー提督が率いる4隻の“黒船”が押しかけました。
1639年から鎖国していた幕府が、開国せざるを得なくなります。この“事件”から、「幕末」と呼ばれる時代に入ったといえるでしょう。
(1) 突然ではなかった異国船の襲来
数十年も前から、次のような動きがありました。
・ 家斉が将軍だった1793年、ロシアのラクスマンが根室へ来襲。
・ 幕府はこれを契機に北方の守備を考え、1789年には近藤重蔵の択捉島、1808年には間宮林蔵の樺太への探検を許可し、海防策を講じました。
・ 1825年の「異国船打払い令」は、外国船の襲来の多さを物語っています。
・ 1839年、「西洋諸国は進んでいるから、鎖国を辞めて交流しないと日本は遅れてしまう」という主旨の学術活動をしていた高野長英・渡辺崋山らが投獄される。
・ 1840年、清国が巻き込まれたアヘン戦争につき、幕府は長崎のオランダ人から知る。
二百年以上の鎖国によって、日本では殆どの人々が、西洋列強によって植民地化されるかもしれないリスクに無関心でした。ロシアなどの動きと接触から、幕府の一部ではリスクに気付き、開国の必要性も考えていました。しかし、開国して幕府の意図が及ばない形で日本人たちが海外と接触すると、幕府の規制が及ばなくなります。また海防問題は、国民の政治参加につながります。つまり、日本人によって幕府が脅かされることがない為の施策を、幕府はとっていました。
(2) 開国に向けた騒動と当時の西洋
1854年、幕府はアメリカと和親条約を締結し、続いて1858年には修好通商条約を締結します。民間などに知恵がつくのを嫌い、鎖国を守っていた幕府が、米国の圧力に負けて開国しました。ところが、鎖国によって虐げられていた側(下級武士など)が「開国反対」を主張しました。これは、条約締結がアメリカの言いなりだったこと、当時の天皇が開国に反対だったことなどによります。
開国問題が騒動になっているなか、病弱な13代将軍の家定の世嗣問題が発生します。
11代家斉の孫にあたる紀州徳川家の慶福か、水戸德川家から一橋徳川家に養子に入った慶喜か、夫々に支持派ができ、慶福派の大老・井伊直弼は反対派の多くを投獄する問題にまで発展しました。(やがて14代将軍には慶福が家茂と改名して就襲しました。)
当時、産業革命を経た西洋列強はアジアで植民地探しに奔走していました。その中で近代武装無しに独立を保ったユーラシアの国はタイぐらいでした。
日本については、欧米列強は「サムライ」との内陸戦を恐れました。戦国時代に来日した宣教師などの書物で、サムライの強さを知っていたからです。
事実、1962年の薩英戦争でもイギリスは敢えて上陸を避け、ある程度の打撃を与えただけで薩摩と講和しました。更に、講和の際に薩摩藩士たちの聡明さを知り「先の見通しが暗い幕府よりも、薩摩などの雄藩が日本の実権を取るに違いない」と見て、薩摩と緊密な中になりました。
またイギリスは下関で砲台を砲撃後で、長州とも緊密な中になっています。
(3) 「鎖国」という隠蔽の失敗と、幕府の終焉
このように、幕府以外が西洋に対して覚醒し、手を結ぶというのは、前述のように、諸外国の動きをある程度は察知しながらも、大名や庶民には隠蔽し続けてきた幕府にとって痛いところでした。
また、鎖国という「引きこもり」状態から、黒船という外部の刺激を見て急に進化した(進化論でいう、ストレスを受けた個体が急に進化するのと同じ)のは、アラブで独裁政権が相次いで崩壊した事例と似ています。西洋の進んだ文物を見て、「幕府を倒さないと、日本が植民地にされてしまう」という危機感もあったのでしょう。
黒船が来航した1853年の10年後、1853年には長州や天誅組の反幕活動が盛んになったり幕府が反攻に出たりしましたが、若くして他界した14代家茂の後の15代将軍に慶喜が就襲した翌年の1867年、江戸幕府は幕を閉じました。
徳川幕府とも呼ばれる江戸幕府の時代を15人の徳川家の将軍を中心に振り返りました。 何度か繰り返し読み、単に暗記するのではなく、それぞれに魅力のある徳川十五代を中心に楽しく覚えていきましょう。