政治史 | 30分で学ぶ分野別日本史まとめ
日本史で最も重点的に学習すべき政治史について解説しました。 古代から現代までの政治の流れを時代ごとに記載しています。
旧石器時代・縄文時代
旧石器時代と縄文時代は狩猟を中心とする生活で、部族をまとめる長のような存在はあったかもしれませんが、貧富や身分の差はありませんでした。
したがって、政治という概念もまだありませんでした。
この時代については生活の様子というものが学習の中心となるので、社会史の記事で詳しく取り上げます。
弥生時代・古墳時代
小国の分立から統一へ
弥生時代になると稲作が本格的に始まり、富の集積が起こります。
富を集中する者が政治的権力を持つようになり、貧富の差や身分の分化が始まります。
権力を握ったものはクニを作るようになり、外交と戦争により権力を拡大しようとします。
この時代の様子は中国の歴史書により知ることができます。
国の統治者は大国である中国と外交関係を持つことで、自らの政治的権威を強化しようとしたからです。
紀元前1世紀には、「漢書」地理志によれば倭国(日本)は約100国に分かれていました。
1世紀から2世紀には、こうした国々の王が中国に朝貢していたことが、「後漢書」東夷伝に記されています。
こうした小国の分立状態は長くは続かず、戦争による国の統合が始まります。
3世紀には日本はいくつかの大国が権力を持つようになりました。
邪馬台国がこうした国の代表例であり、女王の卑弥呼は、鬼道と呼ばれる宗教的権威を背景とした神権政治を行い、239年には魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号を得ます。
4世紀は、中国の歴史書から日本の記載が消え、当時の日本の状況はよくわかりませんが戦争が続く中で統一的な政権が次第に形成されていったものと考えられています。
5世紀になると、再び日本に関する記載が中国の歴史書に現れ、「宋書」倭国伝によれば、倭の五王(讃・珍・済・興・武)は、何度も中国に使者を送り、日本での政治的権威を強化しようとしました。
この頃には大和に統一的な中央政権が作られ、大王の下で有力豪族が連合して政治に当たっていました。
大化の改新へ
6世紀には有力豪族の中から仏教の積極的な受容を主張した蘇我氏が台頭し、独裁体制を築きます。
7世紀初頭の推古天皇の下では、蘇我氏と協力して厩戸皇子(聖徳太子)が政治制度の整備を行いました。
冠位十二階(603)と十七条の憲法(604)を定め、朝廷に使える役人を統制しました。
聖徳太子の後も蘇我氏の専横は強まり、643年には聖徳太子の子の山背大兄王を滅ぼしました。
ここに至り、蘇我氏に反発する中大兄皇子と中臣鎌足は645年に蘇我入鹿を暗殺し(乙巳の変)、蘇我氏を滅ぼします。
律令体制への模索
中大兄皇子らは天皇を中心とする中央集権国家を築こうとしました。
まず、改新の詔(646)を出し、公地公民制と班田収授法を採用することを明確にします。
この後、歴代の天皇は行政の方法を定めた令を編纂し、中国の都にならった都城を造営し遷都を繰り返しました。
こうした中央集権体制への模索が終結したのが大宝律令の制定(701)と平城京遷都(710)でした。
弥生時代の小国の分立から中央集権国家の成立までは、
小国分立→いくつかの大国(邪馬台国の時代)→大和朝廷の成立→蘇我氏の時代→公地公民制への移行期
というように、いくつかの時代の区切りを作って学習するのが効率的です。
奈良時代
奈良時代に最初に権力を握ったのは、中臣鎌足の子の藤原不比等でした。
718年には自ら養老律令を編纂するほどの権力を握ります。
藤原氏不比等の後は、藤原氏の支配に反対する人々を代表して天智天皇の孫の長屋王が政治を行いました。
724年、藤原不比等を祖父とする聖武天皇が即位すると、不比等の4人の子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が台頭します。
そして、729年に長屋王を自殺に追い込みます(長屋王の変)。
藤原4兄弟は権力を握りますが、737年に疫病により全滅します。
次は、反藤原氏の橘諸兄が政権を握り、吉備真備や玄昉ら唐から帰国した人々を積極的に登用して藤原氏を排除した純粋な律令政治の確立を目指しました。
これに不満を持った宇合の子の藤原広嗣は740年に反乱を起こしますが鎮圧されました。
聖武天皇の後、藤原氏を母に持つ孝謙天皇が即位すると、武智麻呂の子の藤原仲麻呂が権力を握ります。
藤原氏が再び台頭したことに危機感を感じた橘諸兄の子の橘奈良麻呂は藤原仲麻呂の排除を図りますが失敗します。(橘奈良麻呂の変 757)。
勢いを得た仲麻呂は藤原不比等が編纂した養老律令を施行し、自分の思い通りの政治を行うために淳仁天皇を即位させます。
藤原氏独裁が始まるかと思われましたが、孝謙上皇は病気を治してくれた僧侶の道鏡を重用するようになります。
孝謙上皇と藤原仲麻呂の対立が激化していく中で、764年、仲麻呂は道鏡排除を狙いますが失敗(恵美押勝の乱)、仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は淡路に流されます。
孝謙上皇は称徳天皇として再び皇位につき、道鏡は太政大臣禅師として権勢を誇ります。
道鏡は皇位をも狙いますが、769年宇佐八幡神託事件により阻まれ、称徳天皇が死去すると下野薬師寺に左遷されます。
そして天智天皇の孫の光仁天皇が即位しました。
奈良時代は目まぐるしく政治の中心人物が変わりますが、藤原氏と反藤原氏の対立軸を意識して学習すると理解しやすいです。
平安時代
律令体制維持の努力
桓武天皇は、道鏡に代表されるように仏教勢力が政治にかかわることを防止するため遷都を決断しました。
784年に長岡京に都を移しますが、遷都計画を担っていた藤原種継が暗殺されたため、縁起が悪いと感じ、794年には平安京に遷都します。
このようにして、平安時代は始まりました。
桓武天皇にとって急務だったのは崩壊しつつあった律令体制の立て直しでした。
非常に重くなっていた班田農民の負担を減らすために、雑徭や公出挙を軽減し、班田を12年に1回とします。
さらに、軍役の負担も軽減するために、郡司の子弟が国府を警備することを定めた健児の制を導入します。
令外官と呼ばれる新しい役職を積極的に導入し、勘解由使により国司の不正を取り締まり、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して反乱が頻発していた蝦夷を討たせ、地方政治の安定を図りました。
嵯峨天皇の時代には藤原氏内部で権力争いが起こりました。
嵯峨天皇の前の平城上皇に重用された藤原薬子が上皇を再び皇位につけようとします。(薬子の変 810)
この企ては失敗しますが、この時、嵯峨天皇の側で活躍し、機密事項を扱う令外官である蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣でした。
薬子は藤原宇合の系統の式家で、冬嗣は藤原房前の系統の北家でした。
薬子の変により、藤原氏の中で北家の地位が確立し、以後の藤原氏の中心となります。
権力を確立した嵯峨天皇は検非違使という令外官に平安京の警察任務を担わせ、文室綿麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷を制圧します。
その上で今までの法律群を整理した弘仁格式を編纂し、中央集権体制を安定させました。
この時期の政治はいかに律令体制を維持していくのかという問題を常に意識して学習すべきです。
藤原氏の台頭と摂関政治
藤原冬嗣で権力を握った藤原北家は他の有力貴族の排斥を進めます。
藤原良房は842年の承和の変で橘逸勢、伴健岑を中央政治から排除し、清和天皇の下で摂政となります。
続く866年に応天門の変で摂政就任に反対していた大納言の伴善男を追放します。
こうして良房は摂政として大きな権力を握ります。
次の藤原基経は関白として政治的権力をふるいました。
基経の死後、宇多天皇は摂関を置かず菅原道真を重用して親政を行いました。
この流れが醍醐天皇、村上天皇にも受け継がれました。(延喜・天暦の治)
しかし、再び藤原氏の力が強くなり摂政・関白を独占するようになります。
969年の安和の変により摂関政治は確固たるものとなりました。
最終的には藤原道長と頼通の時代に藤原独裁体制は最盛期を迎えます。
院政の時代
11世紀後半、摂関家を親戚に持たない後三条天皇が即位すると政治の流れは変わります。
後三条天皇は延久の荘園整理令(1069)を発し、藤原氏に集中していた荘園を没収していきます。
白河天皇が堀川天皇に譲位してからも上皇として権力を維持したころから院政が始まります。
上皇は中下級貴族や武士を重用して政治を進めます。
鳥羽上皇の院政の後、政治的権力をめぐり後白河天皇と崇徳上皇が対立し、保元の乱(1156)が起こります。
平清盛と源義朝の活躍で後白河天皇が勝利し、院政を始めます。
その後、上皇の臣下の争いから平治の乱(1159)が起こり、平清盛が勝利し、1167年には太政大臣に就任し、平氏全盛時代を築きます。
しかし、後白河法皇を幽閉するなど独裁的な政治に反発が高まり、1180年の以仁王の平氏打倒の呼びかけに応じて源氏が挙兵、1185年、平氏は壇の浦で滅亡します。
鎌倉時代
北条氏独裁へ
源頼朝は挙兵した後、侍所、公文所(政所)、問注所という政治機関や守護・地頭という土地管理職を次々と設置し権力基盤を固めました。
そして、1192年征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きます。
頼朝の死後、源氏の直流の将軍の権威は低下し、有力御家人による合議制がとられました。
その中から北条氏が台頭し、他の有力御家人を滅ぼして政所・侍所の長官を独占して執権政治を行うようになります。
執権政治の確立
このような北条氏の政権に公然と反発したのが後鳥羽上皇でした。
1221年、承久の乱で幕府打倒を目指しましたが失敗します。
承久の乱の結果、後鳥羽上皇側についた武士の大量の領地が没収され、御家人に分配され幕府支配はより強くなりました。
3代執権の北条泰時は連署、評定衆を設置し、幕府の機構を整備するとともに1232年に御成敗式目を制定し武家の基本法典となりました。
5代執権の北条時頼の時代の宝治合戦と引付衆の設置により執権政治は完成します。
執権政治の衰退
8代執権の北条時宗の時代に中国を統一したフビライハンの元が攻め寄せます(文永の役・1274 弘安の役・1281)。
幕府は御家人を動員して異国警固番役などを課し、元寇を何とか乗り切ります。
しかし、防衛戦であったため、多大な負担を課せられた御家人には承久の乱の時のように与える領地がなく御家人は窮乏していきます。
1297年には永仁の徳政令が出されましたが効果は上がりませんでした。
その一方で、北条氏は嫡流である得宗の力が強大になり、専制政治を行っていました。
窮乏する御家人をよそに北条氏とその家臣だけが要職を占め繁栄します。
このような中で、後醍醐天皇は延喜・天暦の治を理想として天皇親政を目指し討幕を図ります(正中の変・1324 元弘の変・1331)が失敗し、隠岐に流されます。
しかし専横を極める執権政治に対し有力御家人たちが挙兵し、足利尊氏は六波羅探題を新田義貞は鎌倉を攻略し、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉時代は、承久の乱と元寇という大きな戦乱が政治の状況を変えるキーポイントになっています。
この2つの戦乱の影響をよく理解しましょう。
室町時代・戦国時代・安土桃山時代
南北朝の時代
鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を行います。
しかし、命令である綸旨の方針が一定せず、実質的に幕府を滅ぼした武士も冷遇され建武の新政に対する不満が高まります。
二条河原落書はその象徴です。
このような状況を受けて、足利尊氏は反旗を翻し、光明天皇を即位させ、征夷大将軍に就任し、室町幕府を開きます(1338)。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、2つの朝廷が対立することになりました。
さらに、足利尊氏は弟の直義と対立し、観応の擾乱と呼ばれる衝突が起こりました。
室町幕府の政治と衰退
室町幕府の全盛期を築いたのが3代の足利義満です。
義満は1392年、南北朝の対立を終結させます。
さらに当時、各地で有力であった守護を次々と討伐し、幕府の力を強化します。
土岐康行の乱(1390)、明徳の乱(1391)、応永の乱(1399)が代表的です。
6代の足利義教の頃には一揆が頻発し、1438年には鎌倉公方の足利持氏が将軍権力と争いを起こす(永享の乱)など幕府の権威は低下していきました。
危機を感じた義教は強権的な政治を行うようになりましたが、1441年、赤松満祐は義教を暗殺してしまいます(嘉吉の変)。
嘉吉の変により室町幕府の政治的権威は完全に低下してしまいました。
そして、8代の足利義政の時代の1467年、将軍家や有力守護の後継者をめぐる内部抗争が応仁の乱に発展し、各地に政治権力が分立する戦国時代へと突入します。
戦国時代から統一へ
戦国時代は覇権を目指して全国各地で戦いが続きました。
数ある戦国大名の中から抜きん出た存在となったのが織田信長でした。
信長は1573年に室町幕府を滅ぼし、有力大名を次々と破り天下統一は目前でした。
しかし、1582年、本能寺の変で明智光秀の謀反にあい、自害しました。
信長の天下統一事業を引き継いだのが豊臣秀吉です。
各地の大名を次々と傘下に入れ、1590年には北条氏を滅ぼし、全国を統一しました。
秀吉は関白、太政大臣として権力を握り、検地や刀狩で混乱した戦国時代を収束に向かわせました。
室町時代は諸勢力が乱立するという特徴があり混乱するので、まずは時代区分を明確にした上で、落ち着いて1つ1つ知識を身につけましょう。
江戸時代
江戸幕府の確立
1598年に秀吉が死去すると、信長の時代から実力をためていた徳川家康が政権奪取に動きます。
1600年に関ヶ原の戦いで勝利すると、1603年には征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きます。
家康は、1615年に大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府を安定させます。
そして武家諸法度を制定し、全国の大名に対する統制を強めます。
3代の徳川家光は、1635年、寛永の武家諸法度を発し、参勤交代を制度化するなど大名の力の削減に成功し、鎖国体制も完成させ、江戸幕府は統治の基礎を固めました。
改革の連続
1651年、牢人の由比正雪が反乱を起こしました。
この乱を機に幕府は家光までの武力を背景とした政治を改め、儒教道徳による文治政治に政治方針を転換します。
5代の徳川綱吉は学問を奨励し、生類憐みの令を出しました。
また、側用人の柳沢吉保を重用し、財政難の克服のため元禄小判を発行しました。
続く6代の家宣、7代の家継の下で正徳の治と呼ばれる政治を行ったのは儒学者の新井白石でした。
正徳小判を発行し、海舶互市新例を出し、経済の安定を目指しました。
幕府の財政難はかなり深刻で、時代に合わせた改革を迫られるようになります。
8代の徳川吉宗は享保の改革を行いました。
倹約令に続き、上げ米を出し大名に米を納めさせるとともに参勤交代の期間を緩和しました。
その他にも洋学の積極的な導入、有能な人材の登用、目安箱の設置などを行いました。
10代の徳川家治の下では田沼意次が重用され、側用人から老中になりました。
田沼は株仲間や貿易を奨励するなど幕府に金銭が集まるシステムの構築を重視しました。
18世紀の終わりの11代の徳川家斉の下で老中の松平定信は、飢饉で荒廃した社会の立て直しを図り、寛政の改革を行いました。
囲米で米を備蓄し、棄捐令で借金を放棄させ、帰農令や七分積金により社会の安定を図りました。
次いで12代の徳川家慶の下で老中の水野忠邦が天保の改革を行いました。
株仲間を解散させ、人返しの法で農民を強制的に帰農させ、上知令で幕府の直轄地を江戸・大阪の周辺に集めようとするなどかなり大胆な改革でした。
ここで取り上げた改革は、幕府の財政難と飢饉などによる社会不安を解消するためになされたものであることを念頭に置いて学習してください。
連続した改革として考えるよりも、1つ1つの改革を別個のものとして個別に攻略していく方が効率的です。
幕末の政治
1853年にペリーが浦賀に来航し、翌年の来航時には日米和親条約を結び、幕府は開国を余儀なくさせられます。
開国という大転換の時代に強権的に政治をお行ったのが大老の井伊直弼でした。
1858年には日米修好通商条約を勅許なしで調印し、将軍の後継者争いを譜代大名の推す家茂を14代将軍とすることで決着させました。
さらに、安政の大獄により反対派を徹底的に弾圧しました。
幕府は何とか危機の時代を乗り越えようとしますが、1860年、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺されました。
その後も、幕府と薩摩藩・長州藩などの有力な雄藩が攻防を繰り返し、その中で15代将軍の徳川慶喜は自ら朝廷に政権を返還すること(大政奉還)で以後も徳川氏中心の国家運営を行おうとします。
しかし討幕を目指し、同盟を結んでいた薩摩藩と長州藩は小御所会議で慶喜に内大臣の辞退と全領地の返還を迫り、戊辰戦争に発展し、結果的に江戸幕府は滅亡します。
幕末は事件や人物が多数登場し、複雑化するので重要事項だけをしっかり押さえておきましょう。
明治時代・大正時代
明治初期の政治
新政府は西洋のシステムを取り入れ、富国強兵を目的として近代国家への転換を図ります。
中央政府に政治権力を集中するために江戸時代の藩のシステムを徹底的に解体しました。
近代化と中央集権化の中で武士たちは取り残されていきました。
そうした武士たちに活躍の場を与えるために、武力で朝鮮を開国させようとする征韓論が広まります。
1873年に征韓論をめぐり、政府内も二分され、大久保利通、木戸孝允らの内政優先派が西郷隆盛らの征韓派に勝利し、征韓派の人々は下野します。
下野した人々の一部は武力に訴えて反乱を起こしましたが、新設の政府軍に武士たちは敗れます。
この状況を見て、国会の開設こそ政府に対抗する手段だと考える人々が、1874年、民撰議院設立の建白書を政府に提出し、自由民権運動が始まります。
議会の開設を先送りにする政府に対して、1880年、国会期成同盟が設立されます。
政府は言論弾圧で自由民権運動を取り締まり、議会開設をめぐる攻防は続きます。
当時の政府内では伊藤博文と大隈重信が対立していました。
1881年、開拓使官有物払下げ事件が起き政府への非難が強まる中、政府は国会開設の勅諭を出し、自由民権運動の緩和を図るとともに、政治の主導権争いに一気に決着をつけようと大隈重信を罷免します。(明治十四年の政変)
ここに伊藤博文主導による議会の開設と憲法の制定の流れが確定しました。
内閣制度ができるまでは、明治の政治は非常に把握しづらいので、大きな流れをつかむことを最優先にして細かい知識は必要に応じて覚えていきましょう。
近代国家としての流れ
1885年に内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となり、1889年には大日本帝国憲法が制定され、日本は近代国家としての形を整えました。
1890年には国会が開設され、初期の議会では多数を占める反政府派の民党と藩閥政府の内閣が対立します。
日清戦争後になると藩閥政府は対立による限界を悟り、民党に接近します。
しかし、第3次伊藤内閣の地租を上げようとする政策には、当時の2大民党の自由党と進歩党は譲歩せず反対し、憲政党を結成、史上初の政党内閣である大隈重信内閣が成立します。
この内閣は憲政党の内部対立によりすぐに終わりますが、第2次山県有朋内閣が1900年に軍部大臣現役武官制を導入すると憲政党は山県と対立していた伊藤博文と手を組み、立憲政友会を結成します。
1900年代は山県の系統の桂太郎と伊藤の系統の立憲政友会の西園寺公望が交互に政権を取り、桂園時代と呼ばれます。
初期の議会は内閣との対立と連携の関係を把握した上で記憶すると理解が速いです。
大正デモクラシーの時代
第3次桂内閣が議会を無視した態度を取ると、立憲政友会は反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一次護憲運動を起こします。
桂はこれに対抗しきれず、退陣します(大正政変)。
これは、もはや藩閥政府の強引な国家運営が通用しなくなったことを示すものでした。
大正時代は議会で多数を占める政党が内閣を組織することが「憲政の常道」として定着した時代でした。
第一次世界大戦、関東大震災を経て、1924年、政党内閣ではない清浦奎吾内閣が成立して議会無視の政権運営を行うと護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)は反発し、第二次護憲運動が始まります。
総選挙では護憲三派が圧勝して政党内閣の時代を証明します。
大正時代は多数の内閣が入れ替わるので、それぞれの内閣の出来事を少しずつ覚え、最終的には国際情勢と関連させられるようになりましょう。
昭和時代(戦前・戦中)
政党内閣の終焉
昭和に入ると内閣は経済恐慌の対策に追われます。
第一次若槻礼次郎内閣が金融恐慌をおさえきれずに退陣すると、立憲政友会の田中義一内閣が成立します。
この内閣はモラトリアムを発し、恐慌をおさめました。
1928年には初めて普通選挙が実施されましたが、社会主義政党から当選者が出たため、治安維持法が改正されます。
続く浜口雄幸内閣の下で金解禁がなされたことで昭和恐慌が起こり、社会不安が増大しました。
これは1931年の犬養毅内閣の金輸出再禁止で収束しますが、この頃は国際関係の処理が内閣に重くのしかかります。
1931年に満州事変が起こると当時の第2次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を取り、軍部と対立し、総辞職に追い込まれます。
満州事変の結果として成立した満州国を立憲政友会の犬養毅内閣は承認しません。
これに不満を持った軍部と激しく対立し、1932年に犬養首相は海軍将校らに暗殺され(五・一五事件)、政党内閣の時代は終わります。
この時期の内閣は、前半は恐慌に対する対応、後半は国際情勢に対する対応と分けて考えると理解しやすいです。
戦争へ
五・一五事件の後は、軍部が実質的に内閣を動かします。
満州国を承認し、国際連盟からも脱退し、国際的孤立を深めるとともに国内ではニ・ニ六事件(1936)など軍部の力がさらに強まります。
広田弘毅内閣の下で軍部大臣現役武官制が復活(1936)し、日独防共協定が結ばれ、軍国色は強くなります。
日中戦争が本格化してくる中、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発します。
当時の内閣は不拡大方針を取りますが、アメリカとの外交関係は中国問題をめぐり、悪化する一方でした。
日中戦争の対応に追われた第2次近衛文麿内閣は、1940年に大政翼賛会を設立し、国内の
戦争体制を整えるとともに、北部仏印進駐、日独伊三国同盟、日ソ中立条約を立て続けに結びます。
アメリカを刺激する外交を取る一方で近衛首相は、アメリカとの関係改善を模索し、反米の松岡洋右外相と対立。
松岡外相を除くため総辞職して、すぐに第3次近衛内閣が成立します。
第3次近衛内閣はアメリカを中心とする経済封鎖に苦しみ資源を求めて南部仏印に進駐(1941)します。
決定的に悪化したアメリカとの関係をなお改善しようとする近衛首相と対米開戦を主張する東条英機陸相との対立により、第3次近衛内閣は退陣します。
そして、東条内閣により対米開戦、日本は太平洋戦争へと突入します。
満州事変以来、15年に渡り戦争の時代が続きました。
昭和時代(戦後)
占領期の政治
戦争が終わると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令の下に内閣が政策を実行します。
GHQの出した民主化政策である五大改革指令が基礎となります。
1946年に戦後初めての総選挙が行われ、自由党が勝利し、第1次吉田茂内閣ができました。
そして、1947年に日本国憲法が施行されます。
日本社会党の片山哲内閣、民主党の芦田均内閣と連立内閣が続いた後、再び吉田が政権につきます。
このころ、冷戦が激化したことで、アメリカは日本の経済的自立を急がせます。
経済安定九原則(1948)の下、均衡予算、税制改革がなされました。
1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本は独立へ向かいます。
同時に日米安全保障条約も結ばれ、1954年には自衛隊も発足します。
年体制による政治
吉田の後は、再軍備を主張する鳩山一郎が政権につきます。
鳩山の主張に危機感を感じた社会党は1つにまとまります。
これに対し、1955年に保守政党もまとまり自由民主党を結成します。
ここに自由民主党と日本社会党が対立する55年体制が成立します。
1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約を改定します。
続く池田勇人内閣は経済成長を重視した政策を取り、佐藤栄作内閣は沖縄の返還を実現し、日本の高度成長は最盛期を迎えます。
1972年、田中角栄内閣は中国との国交を回復しますが、中東戦争による石油危機で日本の高度経済成長は終わります。
1976年にはロッキード事件により政治とカネの問題が浮き彫りになります。
1980年代中頃の中曾根康弘内閣でNTT・JT・JRの設立と国の事業の民営化が続きました。
1989年に竹下登内閣は消費税を導入しますが、宮沢喜一内閣で相次いで汚職事件が起こり、政治改革が議論の中心になります。
この中で1993年、非自民の連立内閣である細川護熙内閣が生まれ、55年体制は終わりました。
戦後の政治は内閣ごとに何が起こったのかを個別に学習していくのが効率的です。