国際政治 | 10分でわかる 中学公民まとめ
本単元は、第一次世界大戦から現代にいたるまでの間に、世界がどのように歩んできたのかに焦点を当てます。第二次世界大戦前の国産連盟の設立から見ていくことで、国際政治の発達にも注目します。
はじめに
国際政治の単元では、主に第一次世界大戦後から現代にいたるまでの時間軸を置いて学習を進めていきます。
国際政治の必要性が高まったきっかけにはどういったことがあるのかを読み取る際に、当時の世界情勢を中心とした背景を理解することが重要です。
国際政治で焦点を当てるのは主に第二次世界大戦後の世界になります。
ここから現代にいたるまでの間はこれまで歴史の授業で見てきた時系列と比較をすると短いですが、内容は非常に濃くなっています。
つまり、理解しなければいけない点が非常に多く、それぞれの事柄の背景に至るまでを理解することが求められるでしょう。
細かい年号までを暗記する必要性はそこまで高くありませんが、〇〇が原因で△△が発生したという時系列を押さえておくことは必須になります。
既出である国際連合についても本単元では概要に触れますので、そちらも併せて復習をしておきましょう。
国際的な協力体制の確立
第一次世界大戦と国際連盟
1914年に発生したサラエボ事件(セルビア人青年がオーストリア皇太子を殺害した事件)がきっかけとなり発生したのが第一次世界大戦でした。
主にヨーロッパが戦場となりましたが、世界の国々を巻き込んだ前例のない悲惨な戦争となりました。
第一次世界大戦が終わり、世界の平和と安定を維持するためにウィルソン米大統領が提唱したのが国際連盟の設立でした。
これは文化や民族、宗教、政治、経済など様々な背景を抱えた国々を巻き込んだ取り組みであり、国際政治の本格化に大きな役割を果たすことになったのです。
第二次世界大戦と国際連合
国際連盟が設立され、世界平和の実現への一歩を踏み出したわけですが、当時の世界は様々な困難に直面していくことになります。
それが1929年にアメリカの株大暴落から広がった世界恐慌です。
世界恐慌は文字通り世界経済に深刻な影響を与えてしまい、国際連盟の力は存分に発揮されませんでした。
それに加えて、提唱したウィルソン大統領のアメリカが不参加であったり、紛争解決の際に全会一致が必要とされたり、武力を保有していなかったりなどしたことから、国際連盟の運営が円滑に遂行されず、その地位は徐々に低下していってしまうのです。
最終的には、第一次世界大戦の反省を活かすことが出来ず第二次世界大戦が勃発したことから、国際連盟の理念や願いは淡くも崩れ去ってしまいました。
第二次世界大戦終了後の1945年10月に国際連合が設立されます。
国際連合は国際連盟の機能をより強化した点が特徴的で、改めて世界平和への一歩を踏み出すことになりました。
しかし、やはり現実は中々上手くいくものではありません。
第二次世界大戦後も世界の国々は様々な課題や困難に直面することになっていくのです。
第二次世界大戦後の冷戦
冷戦の始まり
第二次世界大戦が終結する前の1945年2月にヤルタ会談が開かれました。
これは第二次世界大戦後の世界をどのように維持していくかについてが話し合われ、1945年7月に開かれたポツダム会談と併せて、第二次世界大戦後の構想が決められていくことになります。
しかし、これらの協議はすべてが円滑に進んだわけではなく、様々な議題において対立が生じるきっかけとなってしまいました。
それは第二次世界大戦後に浮き彫りとなり、アメリカを中心とした資本主義陣営(西側諸国:アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、日本など)とソ連を中心とした社会主義陣営(東側諸国:ソ連、中国、ポーランドに代表される東欧諸国など)による世界的な対立(冷戦)が発生し、世界に大きな緊張をもたらしたのです。
冷戦は文字通り「冷たい戦争」という意味合いがありますが、これは実際にアメリカとソ連による直接的な軍事衝突(熱戦:熱い戦争)が発生しなかったことから、このように呼ばれます。
第二次世界大戦後における世界構造の中心は、アメリカとソ連の二大国の対立を中心とした国際的な緊張状態、つまり冷戦であったと言えるのです。
東西諸国の軍事同盟
アメリカとソ連による冷戦対立はそれぞれの軍事同盟を設立する流れを生み出します。
1949年にアメリカやイギリス、フランスなど西側諸国が、防衛機能を持つ軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)を設立しました。
なお、当初の加盟国は欧米12か国でしたが、現在では29か国(2020年1月末時点)になっています。
その名称にもある通り、本機構に加盟する国々は主に北大西洋に面する国、もしくはその周辺国になっていますので、加盟国とその位置を地図帳で確認しておくと良いでしょう。
一方、ソ連を中心とした東側諸国は北大西洋条約機構(NATO)に対抗するため、1955年にワルシャワ条約機構(WTO:世界保健機関と同じアルファベット表記であるため混同注意)を設立します。
ソ連など東欧諸国が8か国集まり結成されましたが、後述の冷戦終結に伴い、その活動を終えることになり、1991年には解体されました。
北大西洋条約機構(NATO)について、冷戦後は地域紛争の防止や危機管理などを主な業務として、現在でも存続されています。
朝鮮戦争
第二次世界大戦後の朝鮮半島は日本の支配から解放され、北緯38度線を境に北側はソ連、南側はアメリカに占領されました。
アメリカとソ連の支援を受けたそれぞれの地域は北朝鮮と韓国という形で独立を果たしますが、アメリカ(西側陣営)とソ連(東側陣営)の対立構造は続いていきます。
その結果、1950年に韓国と北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発することになり、北朝鮮は中国、韓国はアメリカの支援を受けながら戦争の激しさは増していきました。
1953年に休戦協定を結んだことでようやく朝鮮戦争は一段落しましたが、2020年1月末現在においても対立は続いています。
なお、戦後の日本は朝鮮戦争の物資供給という点で大きな役割を果たし、特需景気となりました。
その結果、日本の景気活性化につながります。
ベトナム戦争
第二次大戦後のベトナムは南北に分断しており、北ベトナムは東側陣営、南ベトナムは西側陣営となっていました。
1960年に南ベトナムで社会主義勢力である南ベトナム解放民族戦線が結成され、南ベトナム政府との間で争いを起こしていきます。
アメリカは社会主義が広まっていくことを危惧して南ベトナム政府を支援していましたが、北ベトナムは南ベトナム解放民族戦線を支援していました。
その結果、1965年にアメリカは北ベトナムを無差別に爆撃(北爆)し、全面的なベトナム戦争に突入していくことになったのです。
なお、北ベトナムはソ連や中国の支援を受けていたことから、ベトナム戦争も朝鮮戦争と同様に冷戦が背景にあると言えるでしょう。
マルタ会談
冷戦の最中、アメリカとソ連の直接的な軍事衝突はありませんでしたが、その矢面には様々な被害を受けた国々があったことを忘れてはいけません。
しかし、その裏で世界平和を実現するための努力も続けられていました。
1980年代に入ると、ソ連の経済危機によって、同陣営の東欧諸国で社会主義体制を打倒する革命(東欧革命)が次々に発生していくことになります。
ソ連は経済低迷を打破するために、ペレストロイカと呼ばれる改革を実施し、国の方針を大きく変えていくことを決意することになります。
そして1989年のマルタ会談で、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がお互いの経済協力の確認や冷戦の終結を宣言し、40年以上の冷戦はようやく幕を下ろすことになりました。
さらには1991年に社会主義国家であるソ連は崩壊し、およそ70年の歴史も終わりを告げます。
冷戦後の世界
冷戦の終結によって世界平和へ着実に歩みを進めていったかと思われましたが、マルタ会談後においても世界は各地で争いが起きているのが実情です。
1990年代に入ると中東で湾岸戦争、2001年にはアメリカで同時多発テロ、2003年にはイラク戦争、2011年頃にはアフリカや中東で民主化を求める反政府デモが相次いで発生し、数か国で政権が崩壊する事態(アラブの春)になりました。
もちろん、世界には様々な背景を抱えた国があるわけですから、完全な世界平和の実現は難しいかもしれません。
しかし、世界は二度と大きな惨劇を生み出さないよう、確実に連携を深めています。
日本の国際社会復帰
日本は1931年に発生した満州事変をきっかけに、中国の満州を侵略し制圧しました。
その後、満州国を建国したことにより、満州は外部の日本による管轄下に置かれることになってしまいます。
当時の国際連盟は日本に対して、満州からの撤退を勧告していましたが、日本はこれに応じず、1933年に日本は国際連盟から脱退することになったのです。
その後、第二次世界大戦に突入し、世界はさらなる混乱に包まれることになり、1945年8月に日本はポツダム宣言を受け入れ、第二次世界大戦が終結しました。
先述の通り、1945年10月に国際連合が設立され、国際社会は着実に復興へと向かうことになるのです。
しかし、当時、敗戦国の日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管轄下に置かれ、民主化へと歩みを進めていく段階でした。
1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、その翌年に本条約が発効されたことによって主権(物事を自国で決めることが出来る権利)が回復し、一国家として国際社会に復帰します。
そして、1956年の日ソ共同宣言でソ連との国交が回復したことによって、日本の国際連合加入が実現し、本格的に国際社会の一員としてその役割を果たす方向に向かっていくのです。
アジア・アフリカの躍進
アジア・アフリカの背景
2020年1月末現在、世界人口の4分の3ほどはアジアとアフリカで占められていますが、そこから分かる通り、今後はアジアとアフリカが世界に与える影響がさらに大きくなっていくことが推察されます。
現在はそれぞれの独立国としてその地位を築いていますが、その多くは1960年代まで植民地として欧米諸国に支配されていた歴史を忘れてはいけません。
アジアやアフリカの多くは特にヨーロッパの国々による植民地支配を受けていました。
その原因にはヨーロッパ諸国が大航海時代に海外進出をしたことが挙げられます。
スペインやポルトガルは主に南アメリカ諸国、イギリスやフランスはアフリカやアジアへ進出し、各国はそれぞれの地域で植民地を拡大していき、その結果、世界中に多くの植民地が誕生することになりました。
バンドン会議
第二次世界大戦後になり、植民地支配を受けていた国々が少しずつ独立するようになってきた背景に加えて、1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が植民地支配からの脱却をより加速させることになります。
バンドン会議では、アジアやアフリカ諸国の自由や独立の要求をし、植民地支配への反対を掲げ、世界平和の実現を目指そうという意思表示をしました。
これがきっかけにより、より多くの国々が独立へ向かっていくことになったのです。
アジア・アフリカの独立
先述の通り、バンドン会議後は植民地支配からの脱却が加速していきました。
その中でも1960年は多くのアフリカ諸国が独立を果たしたことから、アフリカの年と呼ばれます。
もちろん、アフリカだけではなくアジアも多くの国々も独立を果たすわけですが、とりわけアフリカの年は出題されやすいので覚えておきましょう。
南北問題
2020年1月末現在、世界には200弱の国々が存在しますが、国家間、特に先進国と発展途上国との間に見られる経済格差を南北問題と言います。
これは先進国が北半球、発展途上国が南半球に多く分布していることから名づけられました。
主に先進国は経済発展や工業化が進んでおり、安定的に利益を生み出せるのに対し、発展途上国は特定物の生産に依存するモノカルチャー経済になっていたことで市場や景気に大きく左右される不安定な上程になっていることが原因です。
南北問題を解決するために、特定製品の値上げを実現したり、安定供給出来るような援助をしたり、さらには開発援助を実施したりするなど、様々な取り組みが実践されていますが、根本的な解決には至っていません。
この発展途上国に該当する国々はアジア、アフリカに多くなっている点に注意しましょう。
さいごに
第二次世界大戦後は冷戦を中心に世界に緊張が走る状態が続いていたことから、世界は様々な課題に直面することになります。
そのため、他の時代よりも密度の濃い学習が求められますので、物事が発生した原因や発生した順番を丁寧に学習していくことが重要です。
なお、この単元に関する問題は出来事の名称(例えば〇〇戦争や〇〇会議など)が問われやすいので、まずはそれを覚えることから着手しましょう。