カントの定言命法と仮言命法

カント倫理学を理解するためには必須の概念ともいえる「定言命法」と「仮言命法」を解説します。

カントの定言命法と仮言命法

はじめに

ドイツの哲学者カントは、『実践理性批判』という著書の中で「道徳の基準とは何か?」「善い行為とは何か?」という問いに挑みました。そこで、カントは人間がある規則に従ったり、ある行動を起こしたりするときの動機に注目して、「定言命法」と「仮言命法」という二つの考え方を導入しました。カント倫理学の必須概念でありながら、あまり耳馴染みのない「定言命法」と「仮言命法」の違いを理解しましょう。

カントとは

カントはドイツ(当時のプロイセン王国)生まれの哲学者で、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』(いわゆる「三批判書」)などの著書で知られます。カントは理性万能ともいえる啓蒙主義思想などの独断的な哲学に代わる、真の哲学を確立しようとしました。この考えは、18世紀~19世紀にドイツで盛んになったドイツ観念論としてフィヒテやシェリングらによって継承され、ヘーゲルによって完成されます。このことから、カントはドイツ観念論の祖とも呼ばれています。

カントの哲学は、近世を代表する哲学である合理論(合理主義)と経験論(経験主義)を鋭く批判しています。合理論であれば理性、経験論であれば経験を絶対視するこれらの哲学に対し、人間の理性と経験を無前提に肯定するのではなく、それらの限界を認め、理性の吟味と検証を行うことを趣旨としたことから、批判哲学とも呼ばれています。批判哲学は、西洋近代の哲学の基礎となり、後の哲学者にも大きな影響を与えました。
カントとは

定言命法とは

カントの定義した定言命法は、定言的命令とも呼ばれ、「~せよ」「~しなければならない」という命令の形で示される道徳法則を表しています。あらゆる人間は、この命令に無条件に従って行動すべきだとカントは主張しました。ここでいう、命令とは、具体的に誰かが発した命令ではなく、人類一般に普遍的に当てはまる道徳法則を指しています。簡単に言えば、自分自身が何か行動を起こすときに、いつでも誰でも当てはまるルールに例外なく従うことこそ「善い」ことであるという意味になります。

定言命法に従う場合、そこには利己的な考えや目的は存在しません。なぜなら、「~せよ」という命令があり、これに無条件で従うのであれば、利己的な動機を差しはさむ余地はないからです。もし、自分の得になると考えて、ある行為をするというのは、後述する仮言命法に従う考え方になります。「~せよ」という命令の形で示される義務に基づき、利己的な動機を完全に排し、ただ無条件に従うことが定言命法の考え方です。

一方で、定言命法で示される義務の内容が何であってもいいわけではありません。何でも無条件に従うだけなら、犯罪や悪行でも行ってよいことになり、道徳法則とは言えません。また、行為を行う主体に、自分の意思が存在しないことになってしまいます。そのため、定言命法で示される義務は、普遍的なものである必要があります。
行為をする人やタイミングが変わっても、誰にでも、いつでも、適用できる義務でなければ、普遍的とは言えません。普遍的であるからこそ、誰もが常に守らなければいけない原則となり、原則を命令ともいえる義務にまですることが出来ます。定言命法は、自分の行動基準を普遍的な道徳法則にまで高めるためのルールを課しているともいえます。

定言命法について具体的な事例をもとに考えてみましょう。例えば、ある人が「嘘をつかない」という決断をして、真実を話したとします。嘘をつかないという行為は、一般的には道徳的に善いことのように思えますが、カントはその行為自体では善悪を判断せず、嘘をつかない動機に注目します。

もし、嘘をつかないことが「誠実な人だと思われたい」「嘘をつくと周りの人に悪く思われる可能性がある」など自分の利益のためであれば、それは条件付きでルールに従っているだけなので、定言命法に反することになります。

嘘をつかない理由が、「嘘をついてはいけない(真実を話せ)」というルールが普遍的に当てはまる道徳であり、それに従わなければならないから、嘘をつかなかった、というのなら定言命法に従って行動したことになります。カントは、後者をより道徳的に善いこととみなしました。定言命法に従うことは、普遍的な道徳法則を守るという人間の義務を、利己的な動機もなく、それが義務であるというだけで尊重したことになるからです。

仮言命法とは

定言命法に相対する概念が「仮言命法」です。仮言命法は、仮言的命令ともよばれます。無条件の命令を表す定言命法に対して、仮言命法は「~ならば、~せよ」という言葉で端的に示されるように、条件付きの命令を意味します。先ほどの例でいえば、「誠実な人だと思われたければ、嘘をついてはならない(真実を話せ)」という命令が仮言命法になります。この命令のもとに嘘をつかなかった人は、仮言命法に従ったといえます。

カントは、仮言命法に従うことは、定言命法に従うことよりも道徳的に悪いことだとみなしました。なぜなら、仮言命法に従うのであれば、行為の結果がたとえ周囲に良い影響を及ぼしたとしても、その人が本当に意図していることは自分の利益を増やすことだからです。
たとえ同じことをしていたとしても、純粋に道徳法則を守ろうとしている人と自分の利益のためにやっている人では、道徳的な善悪が異なるというのがカントの考え方であり、善悪の基準が動機に置かれている点に注意が必要です。

また、仮言命法は条件付きの命令なので、そもそも条件にあてはまらなければ、命令に従う必要もなくなります。先ほどと同じ例でいえば、誠実な人だと思われなくてもよい人は、嘘をついても命令に反したことにはなりません。

そのような命令では、行為を行う人や時と場合によって命令を守るべきかどうかが変わってしまい、普遍性を持つことが出来ません。したがって、人類一般に適用できる道徳法則にもなりません。この意味でも、仮言命法には問題があるといえます。そのため、カントは仮言命法よりも定言命法に高い価値を置きました。

功利主義・帰結主義との違い

定言命法と仮言命法に示されるカントの考え方は、命令の形で示される義務に従っているかどうかを問う点に特徴があります。これは、ベンサムらが確立した功利主義とは相反する発想です。

功利主義では、行為の動機よりも結果に注目します。功利主義者として有名なベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉が象徴的に示しているように、幸福の総量を最大化することこそが道徳に適うことであり、そこでは動機の中身は問われていません。功利主義の発想であれば、利己的な動機に基づいて行動していたとしても幸福の最大化という結果が実現さえしていれば、何の問題もありません。

例えば、電車内でお年寄りに席を譲る場合を考えてみましょう。席を譲る人に「よい人だと思われたい」という動機があったとしても、結果としては席に座りたいお年寄りが座れるようになったことになるので、幸福の総量は増大したことになります。カントの倫理学では、仮言命法に従ったことになる行為も、功利主義では善いことをしたことになります。

逆に言えば、功利主義では、崇高な理念を掲げて行動したとしても、結果的に幸福の総量を減らしていれば、道徳的に正しいとは考えられません。功利主義は、行動から逆算して道徳的価値を判断する点で、帰結主義と呼ばれる哲学の潮流の一つでもあります。

カントの考え方は、行為の結果ではなく、動機、具体的には義務に従っているかどうかを問題にしたことから義務論とも呼ばれ、功利主義・帰結主義とは対立する関係にあります。

定言命法と自由

無条件の命令である定言命法に従うことは、ややもすれば、ただ思考停止しているだけであり、自由な意思決定が出来ないように見えるかもしれません。しかし、カントは意思の自律という概念を重んじ、それどころか定言命法に従って義務を果たすことが真の自由であると考えました。ここでいう「自由」とは、何でもやりたいことが出来るという一般的な自由の意味とは異なることに注意が必要です。

カントは、別の著書『人倫の形而上学の基礎付け』の中で、自殺の禁止など4つの守るべき義務を具体的に挙げています。ただ、それ以外の項目については、義務が法典のように列挙されているわけでもなく、守るべき全ての義務が網羅されているわけでもありません。

『実践理性批判』の中でも、カントが述べているのは定言命法の説明のみに限られます。だから、ある人が行おうとしていることが本当に定言命法に従っているかどうかも、そもそも定言命法の具体的な中身も分かりません。これらは、行為をする人が自分自身で考えなければならないことになります。逆に言えば、自分で自分自身を律し、自分の意思に従うこととも言えます。

だからこそ、他者に強制されることなく、本人が純粋に道徳法則のみを尊重して行動することが善いことだとカントは考えました。これに反し、自分の利益や欲望といった経験的なものに規定されて、自分の行動を決めるのは、他律であり、自由ではないとみなしました。近代の人間は自分で考えて行動することが出来るのに、利益や欲望といったモノに行動を規定されてしまっているからです。カントの考える自由とは、何事にも囚われずに、自らの意思で自らの行くべき道を決められる自律を前提としています。
人間の尊厳と永久平和

人間の尊厳と永久平和

カントの定言命法と仮言命法の発想は、人格を手段ではなく目的として扱うという考えにも通じています。カントは、自らの理性で判断し、自らの命令に従う人間を人格と呼びました。人格は、自律的で自由な存在であり、最高の価値が与えられています。

カントは、人間に、動物にはないものとして、人間の尊厳という価値を認めました。人間の尊厳の根拠は、外部の環境に規定されて行動を決める動物とは異なり、人間は理性の働きで道徳法則のみを尊敬して行動することが出来る点に、人間には特別な能力にあります。
カントは、こうした人格を「手段」としてのみ扱うのではなく、「目的」として尊重しあうよう求めました。人格を「手段」としてのみ扱うとは、他者を自己の目的を達成する手段や道具として利用することを指します。分かりやすい言葉でいえば、人をモノ扱いするということになります。

たとえば、他者に親切に接したとしても、見返りを得るための行動であれば、それは人格を手段として扱ったことになります。これは、仮言命法の考え方と通じるものがあります。

人格が互いに人間の尊厳を持つ最高の価値として尊重しあうこと、つまり相手を手段として扱わずに、それ自体が目的となるように行動することが、カントの求めた理想です。見返りを求めず、他者の人間の尊厳それ自体を尊重するあり方は、利己的な動機を排して、無条件に道徳法則を尊重する定言命法とよく似ています。このように、定言命法と仮言命法の考え方は、他のカントの倫理学にもあてはめることが出来ます。

さらに、カントは、人格を手段としてではなく目的として扱うという原則を国家間にも適応させることが出来れば、平和が実現すると考えました。
この考えは、後に出版される『永遠平和のために』の中で深められ、詳しく描かれることになります。

人間の尊厳に関する議論は、現在の人道主義に、『永遠平和のために』は国際連盟の結成にも繋がり、カントの倫理学は現在でも大きな影響力を有しています。

カントの定言命法と仮言命法を説明してきました。
定言命法と仮言命法の考え方は、他のカントの著作にも通じており、カント倫理学を理解する上で要となる重要な概念です。

無条件の命令か、条件付きの命令か、という語句の意味からその語句が示す内容まで理解しておく必要があります。また、行為の結果ではなく動機に重点を置くカントの考え方は、功利主義・帰結主義に対する疑問の中から生まれてきたものであり、当時の哲学の状況を知ることも、カント倫理学のより深い理解に繋がります。
抽象的な用語が多いカントの思想ですが、分からなくなったときは具体的な例をもとに考えてみましょう。
 おすすめの勉強アプリはコチラ